顔良(がんりょう)

 

顔良といえば、文醜(ぶんしゅう)と共に

袁紹軍を代表する猛将です。

 

そんな顔良が表舞台に立ったのが

曹操軍と激突した白馬の戦いでした。

 

この時に袁紹参謀であった沮授が、

「顔良は全体を見渡す力がないので、

顔良だけで兵を率いさせてはいけない」

と袁紹を諫めています。

 

袁紹はこれに聞く耳を持たず、顔良に兵を率いさせて、

白馬津(はくばしん)の曹操軍を攻撃させます。

 

またこの時、顔良のみでなく、

都督であった淳于瓊・郭図にも攻撃させています。

 

 

攻撃を受けた曹操軍ですが、

荀攸の戦略によって、危険を察した淳于瓊・郭図は撤退しますが、

顔良軍のみ分断されてしまいます。

 

そんな顔良に対して、当時曹操に仕えていた関羽と張遼が、

曹操の命令を受けて攻撃をしかけます。

 

そして関羽は、顔良に一騎打ちをしかけ、

顔良は関羽に討ち取られてしまいます。

孔融と荀彧

曹操に仕えていた孔融は、

顔良と文醜の武勇を高く評価していました。

袁紹軍の猛将「文醜」

 

しかし同じく、曹操に仕えていた荀彧は、

その考えに対して、次のように答えています。

「顔良と文醜が優れているのは武勇のみで、こういう輩を捕らえる事は簡単である」

 

荀彧の評価の通り、曹操との戦いで、

顔良も文醜の両方とも簡単に討ち取られてしまいます。

三国志演義での記載

三国志演義での顔良は、白馬の戦いで、

呂布の降将である魏続(ぎぞく)・宋憲(そうけん)を討ち取り、

勢いづいた顔良軍は、徐晃を打ち破っています。

 

その後、当時曹操の世話になっていた関羽が飛び出し、

顔良を討ち取って撃退しています。

 

顔良が関羽に討ち取られた事で、

後に義兄弟の文醜までもが討ち取られる流れに繋がっていきます。

 

顔良・文醜を討ち取る手柄を関羽に与える事で、

どれだけ関羽が武勇に優れた将軍かアピールしたかったのでしょう。

三国志通俗演義での記載

三国志通俗演義とは、1522に発刊されたものであり、

現存している最古の刊本になります。

 

これらをもとにして、

三国志演義は書かれていく事になります。

 

この三国志通俗演義は、

一般的に「嘉靖本」と言われたりもします。

 

 

これによると、曹操に徐州で敗れた劉備は、

袁紹の元に落ち延び、袁紹が曹操と戦う際に、

 

もし関羽と出会う事があったなら、

劉備の元に戻って来るように関羽の風貌を顔良に教えていました。

 

そして戦場で関羽らしき人物を見かけ、

関羽らしき人物と戦場で出会い、その旨を関羽に伝えようとした矢先、

戦う意思もなかった顔良をそのまま切り捨ててしまっています。

 

この場合、一騎打ちもなにも無防備な顔良を、

関羽がただ斬り捨てただけということになりますね。

 

 

顔良は袁紹軍きっての猛将だと言われながらも、

それを表すような記載がほとんど残っておらず、

 

顔良が知られるきっかけとなったのが、

斬り捨てられた白馬の戦いだけで、

豪傑だと判断する疑わしいさがどうしても残ってしまいますね。