尹黙 -荊州への遊学-

尹黙いんもくあざなは「思潜」といい、益州梓潼郡涪県の出身になります。

 

若い頃から勉学に励んでいた尹黙でしたが、

自らを更に高めるべく、文学が盛んな荊州へと遊学しています。

 

 

そして荊州へ遊学した尹黙ですが、司馬徽しばき宋忠そうちゅうにの門をたたき、

漢字の書体の一種とされる「古文」について学んだといいます。

 

ちなみに司馬徽は諸葛亮・龐統とも関係が深い人物で、

「水鏡先生」としても知られる人物でもありますね。

 

 

「尹黙は乾いた土が水を吸い込む」

と言ったように呑み込みが早かったようでして、

多くの経書や歴史書に精通するようになっていったのでした。

 

 

その中でも尹黙が特に力を入れて学んでいたのが、

「春秋左氏伝」の研究だったようでして、

 

尹黙は「春秋左氏伝」に関係する書物のほとんどを読み漁り、

内容全てを暗誦できるほどだったといいます。

 

 

それは劉歆の条例だけでなく、

「鄭衆・賈逵父子・陳紀・服虔といった者達の注釈」すらも暗記していたそうです。

 

このように尹黙は一度読んだ書物を直に暗記できたことから、

同じ書物を二度三度と読むことはありませんでした。

劉備への仕官

勉学・研究に励んだ尹黙でしたが、

尹黙の名が次に登場するのは劉備が益州を手に入れたタイミングになります。

 

ここで尹黙は劉備から勧学従事に任じられています。

 

 

劉備が荊州の新野城を任せられていた頃に、

おそらくではありますが、尹黙は劉備に仕官したのでしょう。

 

まぁどんなに遅くとも、

赤壁の戦い以後の荊州南部(四郡)を平定した頃には・・・

 

実際に諸葛亮・龐統・馬良を筆頭に、

沢山の優れた者達が劉備に仕え出した時期ですしね。

 

 

まぁ記録がない以上、もしかすると尹黙が荊州から益州に戻り、

劉璋に仕えていた可能性も一応ありはしますが・・・

 

この場合は「劉璋の降伏と共に劉備に仕えた」

という流れになりますね。

司馬徽 -諸葛亮・龐統・徐庶など多くの弟子を持つ水鏡先生-

劉禅の家庭教師「太子僕」へ

劉備が後継者として劉禅を太子に任じると、尹黙を「太子僕」に任命しています。

 

尹黙は、『劉備の息子であった劉禅に対して、

得意とする「春秋左氏伝」を教えていた。』といいます。

 

ちなみに「太子僕」という職の本来の役割は、

太子(ここでは劉禅)の車馬を管理するような役割になりますね。

 

 

また劉備が「蜀漢」を建国した際には、上奏文に名を連ねたりもしていますね。

 

その後に劉備が白帝城で亡くなると、

劉禅政権下で諫議大夫に任命されることとなります。

諸葛亮から高い評価を受けた尹黙

 

そんな尹黙ではありますが、

「諸葛亮からも厚い信頼を受けていた」といいます。

 

だからこそ227年に諸葛亮が漢中に滞在していた頃、

軍祭酒に任じて尹黙を呼び寄せています。

 

ちなみに227年とは、諸葛亮の第一次北伐の直前の年になります。

「軍祭酒」の基本的な役割は、「軍事についての相談役」みたいな感じですね。

 

諸葛亮からの高い信頼を受けていた尹黙ですが、

諸葛亮が五丈原で亡くなると諸葛亮の棺と共に成都へと帰還しています。

 

おそらく第五次北伐でも、

「なんらかの形で尹黙も従っていた」と解釈するのが普通でしょうね。

 

 

そして成都へと帰還した尹黙ですが、太中大夫に任じられています。

その後の尹黙に関しての記録は、「その後に死去した」とあるのみです。

 

おそらく天寿を全うした生涯だったと思われます。

陳寿の評価

「三国志(正史)」を著した陳寿は、尹黙を次のように評価しています。

「尹黙は春秋左氏伝に通じた人物で、

徳行を称賛されることはなかったが、一代の学者たる人物であった。」

 

尹黙に関する「正史」の記録は非常に少なく、

そのせいもあってか「三国志演義」でも名前が登場する程度におさまっています。

 

 

「蜀志」尹黙伝が立てられているにもかかわらず、

尹黙に関する記載が非常に少ないというのは残念なことではあります。

 

まぁこれは尹黙だけに言えた事ではなく、

黄忠や趙雲といった者達でさえ、少ない記録しか残っていなかったりするのが現状です。

 

 

最後に余談ではありますが、

「尹黙の息子である尹宗が、

尹黙の学問を後世に伝え、やがて博士となった。」と記録が残されています。