孔融(こうゆう)

孔融は後漢末期の名士であり、

儒学の祖である 孔子 の20世前後の子孫として知られています。

 

学識と文学に優れ、後に「建安七子」の一人として名を残しました。

 

しかし一方で、その率直すぎる性格ゆえに権力者との対立を繰り返し、

最終的には 曹操 によって処刑されるという波乱の生涯を送りました。

 

そんな孔融ですが、幼少の頃から聡明で礼節を重んじる人物として知られていました。

中国では有名な「孔融、梨を譲る」の逸話があります。

 

兄弟たちと梨を分ける際、自ら小さい梨を選び、

年長者に大きな梨を譲ったという話で、後世には儒教的美徳の象徴として広く語られるようになりました。

この逸話は『後漢書』孔融伝(李賢注「孔融家伝」)に残されています。

李膺との面会

孔融が10歳ほどの頃、

当時天下に名声を轟かせていた李膺への面会を求めました。

 

李膺は名士以外とは容易に会わない人物として知られていました。

そこで孔融は、「私の先祖と李君の先祖は昔から交際がありました」と門番に伝えます。

 

不思議に思った李膺が理由を尋ねると、孔融は

「私の祖先の孔子は、

あなたの祖先である老子に教えを受けたことがあります。

ゆえに両家は旧知の間柄です。」と答えました。

 

その場にいた陳煒という人物が

「幼い頃に賢くても、大人になって賢いとは限らない。」と皮肉を言うと、

孔融は即座に「それでは貴方は幼い頃、さぞ聡明でいらっしゃったのでしょう。」と切り返しました。

 

この機知に富んだ返答に、李膺は大いに感心し、

「この子は将来必ず大成する。」と評したと伝えられています。

北海国相としての活躍

孔融は後漢に出仕した後、北海国の相(国王に相当する地方長官)となりました。

後に劉備に上表される形で、孔融は青州刺史となっています。

 

黄巾の乱によって荒廃した北海で、

孔融は学校を建設し、儒学の教育を奨励しました。

 

また学者や名士を保護し、地域文化の復興にも尽力しています。

武力による統治よりも、礼教や学問による統治を重視した人物でした。

 

 

この頃、後に呉将となる若かりし頃の太史慈との逸話も残されています。

 

それは孔融が管亥が率いる黄巾軍残党軍の包囲を受けた際に、

かつての恩(太史慈の母親の世話をしてくれた恩)があった太史慈が助けにきたわけですが、

それでも状況が厳しいとみるや、知恵を使って、危険を顧みずに包囲網を突破して劉備に援軍を求めた逸話が残されています。

 

そして劉備が三千の兵を率いて到着すると、賊軍は散り散りとなって逃げ去ったといいます。

孔融は太史慈の才能を高く評価し、深く感謝したと伝えられています。

孔融の危機を救った太史慈の恩返し

袁紹との対立と失脚→曹操のもとへ

建安元年(196年)、袁譚(袁紹の長男)が北海へ侵攻します。

孔融はこれに敗れ、北海を失いました。

 

孔融は都である許県へ移り住みます。

中央政界へ移った孔融は、将作大匠・少府・太中大夫などを歴任しました。

しかし政治家としての活躍よりも、学者・論客として知られるようになります。

建安七子の一人

孔融は王粲・徐幹・陳琳らと並び、「建安七子」の一人に数えられます。

特に文学的才能は非常に高く評価され、後世の文学史に大きな影響を与えました。

 

しかし孔融は名士としての自負が強く、曹操の政策に対してたびたび反論しました。

 

曹操が穀物不足を理由に禁酒令を出した際、孔融は皮肉を込めて

「古代の桀や紂は女色で国を滅ぼしたのだから、結婚も禁止すべきではありませんか?」と反論しています。

こうした辛辣な諷刺は孔融の得意とするところでした。

 

そして曹操の魏公就任にも、孔融は後漢王朝を重視する立場から、曹操の権力拡大に否定的でした。

そのため二人の関係は悪化していきます。

孔融の最期

建安13年(208年)、孔融は曹操の命により処刑されました。

処刑理由については、孫権の使者に曹操の誹謗中傷を発したからというものですが、

実際はそんな単純なものではなかったと思われます。

 

それは上でも述べてきたように、長年にわたる政治的対立や度重なる諷刺、

朝廷内での発言などが積み重なった結果と考えられます。

罪状としては「不敬」や「礼法に反する言論」などが挙げられました。

 

そして孔融本人だけでなく、一族も処刑されています。

 

また孔融が逮捕された際、幼い二人の子供は落ち着いて碁を打っていたといいます。

周囲の者が逃亡を勧めると、有名な言葉を残しました。

「覆巣の下に完卵あらんや。

(巣が覆されたなら、無事な卵が残るだろうか。)」

 

つまり、家が滅ぶ以上、自分たちだけが助かるということはない、という意味ですが、

この故事成語は現在でも広く知られています。

人物評価

孔融は優れた学者・文学者であり、後漢末を代表する名士でした。

しかし政治家として見ると、理想論や批判精神が強く、現実的な権力運営には向いていなかった面もあります。

 

一方の曹操も孔融の才能は認めていましたが、

たび重なる批判を容認し続けることはできませんでした。

 

そのため両者の対立は、単なる私怨というよりも、

「名士政治を重んじる孔融」と「実力主義国家を築こうとする曹操」

という時代の変化を象徴する衝突であったとも言えるでしょう。

 

なお、孔融の文学は後世まで高く評価され、曹操と対立したにもかかわらず、

曹操の子である 曹丕 は孔融の文章を高く評価していました。

 

政治家としては挫

北海の統治

 

その後の孔融ですが、後漢に仕官し、

北海(青州)を任され、6年間勤務しています。

 

その後、黄巾賊によって荒らされた青州を回復させる為に、

孔融が青州刺史に任命されることになります。

 

孔融はここで、儒教の布教に力をいれていますし、

高蜜県の賊討伐を解決したりしていますね。

 

ちなみに高蜜県の賊討伐で活躍したのが、

後に曹操に仕えることとなる王脩だったりするわけですが・・・

 

 

まだ若かりし頃の太史慈と孔融が出会ったのもこの頃ですね。

孔融へ恩義を返した青年「太史慈」

その後の孔融

袁紹が力をつけてくると、

孔融は袁紹に攻められて敗れてしまいます。

 

袁紹に敗れてしまった孔融は、曹操が治めていた許都へ逃亡したわけですが、

曹操に仕え、将作大匠・少府・太中大夫と歴任しています。

 

 

孔融は、建安七子の一人として数えられていますが、

曹操が行おうとした政策をことあるごとに反論していました。

 

 

その反論はどことなく屁理屈が多かったためか、

曹操は孔融の事を好きになれず、

 

赤壁の戦い直前に、曹操によって処刑されてしまいます。

 

 

孔融を処刑した理由は、

孫権の使者が許都に訪れた際に、曹操の悪口をいったからだそうです。

 

まぁ理由は何でも良かったのだと思いますね。

 

 

とにもかくにも、

中国に浸透していた儒教の産みの親であった孔子、

 

その子孫である孔融を処刑した事で、

曹操が悪人だというイメージがついた一つの要因になったのです。

 

 

ただ曹操は儒教によって、

能力があっても名声がない人物は評価されないという、

 

そういった儒教社会を壊すためにも、

儒教に縛られているままではいけないと思っていたという側面もありますけどね。

 

それが荀彧の悲劇にも繋がっていくことにもなるわけで・・・

 

 

最後に余談話をすると、

 

曹操に大層疎まれた孔融でしたけど、

息子の曹丕は孔融の詩文を大層愛したというのは皮肉な所だったりします。