孔融(こうゆう)

孔融は幼い頃から学問が好きで、博識ある人物でした。

 

また孔融は儒教の祖である孔子の末裔で、

慕っている者も多かったようです。

 

 

孔融が十歳だった時、

天下に名が知られていた李膺(りよう)に面会を申し込み、

 

門番をしていた人に「私の先祖は、貴方の先祖と親しかった間柄」である事を、

李膺に伝えてくれるように頼みます。

 

 

なぜ孔融がこういう事を門番に言ったかというと、

 

李膺は、変わった考えの持ち主で、

先祖代々付き合いのあった者としか会おうとしなかったと聞いていたからです。

 

 

門番から伝えられた李膺は、

 

「私の先祖と貴方の先祖は、

どういう付き合いがあったのか!?」

と孔融に問いかけます。

 

 

これに対して孔融は、

「私の先祖である孔子は、

貴方の先祖であった老子と徳を重んじた友人でした。

 

だから私達は、昔からの付き合いになりますよね!?」と返したわけです。

 

これを聞いた李膺は、孔融を褒め称えたといいます。

 

 

しかしこの場に同席していた陳煒(ちんい)という者が二人の間に割って入って、

「子供の時に賢くても、

大人になっても賢いとは限りませんよ!」

 

とチャチャをいれてきました。

 

これに対して孔融は、

「では貴方が子供の頃は、非常に賢かったのでしょうね」

と機転を利かした返答をします

 

 

これを聞いた李膺は、

「孔融殿が大きくなったら、

きっと立派な人物になるでしょう」と孔融を非常に高く評価したのでした。

北海の統治

その後の孔融ですが、後漢に仕官し、

北海(青州)を任され、6年間勤務しています。

 

その後、黄巾賊によって荒らされた青州を回復させる為に、

孔融が青州刺史に任命されることになります。

 

孔融はここで、儒教の布教に力をいれていますし、

高蜜県の賊討伐を解決したりしていますね。

 

ちなみに高蜜県の賊討伐で活躍したのが、

後に曹操に仕えることとなる王脩だったりするわけですが・・・

 

 

まだ若かりし頃の太史慈と孔融が出会ったのもこの頃ですね。

孔融へ恩義を返した青年「太史慈」

その後の孔融

袁紹が力をつけてくると、

孔融は袁紹に攻められて敗れてしまいます。

 

袁紹に敗れてしまった孔融は、曹操が治めていた許都へ逃亡したわけですが、

曹操に仕え、将作大匠・少府・太中大夫と歴任しています。

 

 

孔融は、建安七子の一人として数えられていますが、

曹操が行おうとした政策をことあるごとに反論していました。

 

 

その反論はどことなく屁理屈が多かったためか、

曹操は孔融の事を好きになれず、

 

赤壁の戦い直前に、曹操によって処刑されてしまいます。

 

 

孔融を処刑した理由は、

孫権の使者が許都に訪れた際に、曹操の悪口をいったからだそうです。

 

まぁ理由は何でも良かったのだと思いますね。

 

 

とにもかくにも、

中国に浸透していた儒教の産みの親であった孔子、

 

その子孫である孔融を処刑した事で、

曹操が悪人だというイメージがついた一つの要因になったのです。

 

 

ただ曹操は儒教によって、

能力があっても名声がない人物は評価されないという、

 

そういった儒教社会を壊すためにも、

儒教に縛られているままではいけないと思っていたという側面もありますけどね。

 

それが荀彧の悲劇にも繋がっていくことにもなるわけで・・・

 

 

最後に余談話をすると、

 

曹操に大層疎まれた孔融でしたけど、

息子の曹丕は孔融の詩文を大層愛したというのは皮肉な所だったりします。