徐庶(じょしょ)

徐庶は、もともと徐福という名前で、

単家(庶民の家)の子として生まれました。

 

若い時の徐庶は、武芸に励んでおり、

剣の遣い手で、義侠心の厚い人物でした。

 

ある時、仲間の仇討を引き受け、

役人に捕まってしまいますが、仲間によって助けられています。

 

その後の徐庶は、これまでの考えを改め、

学問を学ぶ為に学問が盛んな荊州へ移住しました。

 

そして司馬徽(しばき)に弟子入りします。

司馬徽の元で、荊州学(けいしゅうがく)を学んだ徐庶は、

諸葛亮をはじめ、多くの人達と交流していきます。

劉備に仕える

劉備が荊州へ流れてくると、

劉備は、劉表によって新野を任される事になります。

 

そんな折に、劉備と出会う事になるのですが、

劉備を気に入った徐庶は劉備に仕えます。

 

そしてこの時に、

諸葛亮(孔明)を劉備に推薦しています。

 

その際に徐庶は、「諸葛亮を呼び寄せる事は無理なので、

どうしても会いたい場合は、こちらから出向かないといけません」

と劉備に言っています。

 

この言葉を聞いた劉備は、諸葛亮の家に何度も訪問し

仲間に引き入れています。

 

この時出来た言葉が、

「三顧の礼」という有名なことわざになります。

三顧の礼

 

三国志演義の影響を受けてる人が多いですが、

この時、徐庶と諸葛亮は共に劉備に仕えています。

曹操に仕える

徐庶と諸葛亮が劉備に仕えた後、

曹操が南下を始め、長坂坡で曹操軍に敗北した際に、

徐庶の母親が捕らわれてしまいます。

 

母親想いの徐庶は、母親を助けるために、

劉備の元を去って曹操に仕えています。

 

 

曹操に仕える事になってしまった徐庶ですが、

その後は目立った活躍はしていません。

 

ただ母親と共に過ごし、

曹操の元で順調に出世していっています。

 

そして234年、親友であった諸葛亮が死んだ年に、

徐庶も彭城で天寿を全うしたそうです。

 

 

同じ時に劉備に仕え、

立場は違えど同じ年にこの世を去った二人、

個人的には、どこか運命じみたものを感じてしまいます。

三国志演義での徐庶

正史では際立った活躍もなかった徐庶ですが、

三国志演義では劉備の元で大活躍を見せています。

 

徐庶は、単家(庶民の家)生まれでしたが、

その「単」という漢字を徐庶の「姓」だと間違えられ、

劉備と初めて出会ったと時は「単福」と名乗っていました。

 

 

曹操が南下を開始し、五千の軍勢を率いた曹仁・李典の先鋒隊を、

徐庶は二千の兵士で勝利します。

 

その後、前回の敗戦のリベンジとして、

曹仁・李典が二万五千の兵で再び攻めてきます。

 

この時、曹仁は「八門金鎖の陣」を敷きますが、

徐庶はこれを見破り、大勝します。

 

つまり徐庶は、華々しいデビュー戦を飾ったわけです。

 

 

徐庶の指揮の元、

二度も撃破された事を知った曹操は、

なんとか徐庶を味方につけたいと考えます。

 

そうすると程昱(ていいく)が、

徐庶の母親の字を真似て、偽手紙を出し、

曹操軍に引き込もうとします。

 

その手紙を受け取った徐庶は、

劉備に暇乞いをし、曹操の元へ旅立ってしまいます。

 

立ち去る際に、自分の代わりといって、

劉備に諸葛亮を推薦しています。

 

 

赤壁の戦いでは、

龐統(ほうとう)が連環の計を曹操にしかけますが、

 

同行していた徐庶は、

これが曹操を倒す為の策だと見抜きます。

 

しかし徐庶の母親は、劉備の元を去って、

曹操の元へ来たことにショックを受けて自殺した事件があり、

 

「二度と曹操のために計を用いない」と心に決めていた徐庶は、

知らない振りをしています。

 

そして敗北する曹操軍の巻き添えを食らわないために、

涼州に備えるという名目で、赤壁の地から去っています。

 

その後の徐庶の活躍は見られません。

諸葛亮の徐庶に対する評価①

魏に仕えていた徐庶は、

右中郎将・御史中丞を歴任しています。

 

諸葛亮が後に徐庶の官位を知ると、

「徐庶ほどの人物でさえ、その位の官位にしかつけないとは信じられない。

魏にはどれだけ優秀な人材がいるのだろう」と徐庶の才能が活かされていない事を嘆いたそうです。

諸葛亮の徐庶に対する評価②

諸葛亮が丞相になった時に、

部下に対して次のような事を言っています。

 

「職務を携わる者は、

色々な人の意見を参考にしなければならない。

 

その際に意見が違うからといって、

その意見に耳を傾けないならば、仕事に欠陥を生じてしまう。

 

異なる意見が他から出た時は、

それをきちんと検討しなおしてこそ適切な対応ができる。

これは簡単なようで、誰もができることではない。

 

 

ただ徐庶だけは違った。

 

もし徐庶の十分の一でも真似することができたなら、

国家に対しての真の忠義の行いであり、私の過失も少なくなるだろう

と徐庶の力を認め、非常に高い評価をしています。

それ以外にも、

「荊州で、崔州平と交友があった頃、

私に欠点があった際は、その欠点を遠慮なく指摘されたものだ。

 

その後徐庶と出会って、

私自身徐庶から色々な事を教わった」とも話しています。

徐庶の個人的な評価

 

諸葛亮の徐庶への評価からも分かるように、

諸葛亮は、同じ司馬徽の元で学んだ徐庶を高く評価していました。

 

それだけに、曹操の元で大した活躍もなかったことが、

一読者として、非常に残念でたまりません。

 

 

「劉備への忠義」「親への孝行」

どちらも大事にできてればいう事はないですが、

こういう時代だからこそ、どちらかしか選べなかったのだと思います。

 

ですが、母親を生涯大事にし、天寿を全う出来た徐庶は、

ある意味幸せだったのかもしれません。

 

 

ただ諸葛亮が蜀で頑張ってた姿を、

徐庶はどういう気持ちで見守ってたのでしょうね。

 

 

もし劉備の元を去っていなければ、

 

諸葛亮と力を合わせ、魏を倒そうと頑張っていた自分の姿が、

脳裏に浮かんでいたのかもしれません。