徐庶(じょしょ 字:元直)

徐庶は、もとは徐福という名でした。

後に「福」の字を避け、「庶」と改名したと伝えられています。

 

若い頃は学問よりも武芸を好み、剣術に優れた任侠肌の人物でした。

義侠心が強く、仲間の仇討ちに加わったことで役人に捕らえられますが、仲間の助けによって救出されています。

 

この出来事を機に、それまでの生き方を深く反省した徐庶は、

武ではなく学問の道を志しました。

 

そして戦乱を避けて多くの学者が集まっていた荊州へ赴き、本格的に学問を修めるようになります。

当時の荊州は、荊州牧・劉表が学者たちを厚遇したこともあり、中国屈指の学問の中心地となっていました。

 

徐庶はこの地で司馬徽(水鏡先生)ら名士と交流し、

諸葛亮・石韜・孟建・崔州平など多くの俊才とも親交を結んだと伝えられています。

劉備に仕える

建安年間、徐庶は新野にいた劉備に仕官しました。

劉備は徐庶の才能を高く評価し、軍事・政務の両面で重用します。

徐庶もまた劉備の人柄に深く感銘を受け、忠誠を尽くしました。

 

この頃、徐庶は劉備に対して、

「諸葛孔明は臥龍と称される人物です。

自ら出向いて礼を尽くさなければ迎えることはできません。」

と進言しています。

 

この助言を受けた劉備が諸葛亮のもとへ三度足を運んだ故事が、

後に有名な「三顧の礼」となりました。

 

なお、徐庶が劉備を去る直前に諸葛亮を推薦したという流れは『三国志演義』の脚色です。

正史では、徐庶と諸葛亮は一定期間、同時に劉備に仕えていたことが「蜀志」諸葛亮伝に記されています。

曹操軍への移籍

建安13年(208年)、曹操が荊州へ侵攻すると、長坂の戦いで劉備軍は大敗しました。

この戦乱の中で徐庶の母親が曹操軍の支配下に入り、徐庶は母を案じて劉備のもとを去る決断をします。

 

正史には、

  • 曹操が偽の手紙を書かせた
  • 程昱が母を利用した
  • 母が自害した

といった記述はありません。これらは『三国志演義』による創作です。

 

徐庶は孝を重んじ、自らの意思で母のもとへ向かったと考えられています。

 

徐庶は魏に仕えた後、右中郎将・御史中丞などの官職を歴任しました。

しかし、劉備時代のような参謀としての活躍は史書にはほとんど記録されていません。

 

これは能力が低かったからではなく、

魏には司馬懿・陳羣・劉曄・蔣済・董昭ら優秀な人材が数多く在籍していたことや、

徐庶自身が積極的に軍略へ関与する立場ではなかったことも一因と考えられます。

 

そのため、徐庶は高官ではあったものの、

歴史に残るような大きな戦功を挙げる機会には恵まれませんでした。

諸葛亮からの高い評価

徐庶の才能を最も高く評価していた人物の一人が諸葛亮でした。

 

諸葛亮は徐庶が魏で右中郎将・御史中丞に留まっていることを知ると、

「徐元直ほどの人物が、その程度の官位に留まっているとは信じ難い。

魏にはどれほど多くの優秀な人物がいるのだろう。」と語ったと伝えられています。

 

また諸葛亮は部下に対し、

「人は多くの意見を聞き、それをよく検討しなければならない。

異なる意見を退ける者は過ちを犯す。」

と説いたうえで、

「徐庶ほど他人の意見を公平に受け入れられる人物は稀である。

私も徐庶の十分の一でも見習うことができれば、過ちを大きく減らせるだろう。」

と、その人格と器量を高く称賛しています。

 

徐庶は学識だけでなく、謙虚さと公正さにおいても諸葛亮から深く敬愛されていました。

晩年と死

徐庶は魏で生涯を送り、

青龍2年(蜀 : 建興12年、234年)に彭城で亡くなったと伝えられています。

奇しくもこの年は、諸葛亮が五丈原で病没した年でもありました。

 

二人は同じ荊州で学び、共に劉備へ仕えながらも、その後は異なる陣営で人生を歩みました。

 

歴史の巡り合わせによって敵味方に分かれたものの、

互いの才能を認め合った名士同士として、その友情は後世まで語り継がれています。

三国志演義での徐庶

『三国志演義』では、徐庶は正史以上に活躍する名軍師として描かれています。

 

当初は「単福(ぜんぷく)」と名乗って劉備に仕え、

曹仁・李典率いる曹操軍をわずかな兵で幾度も打ち破りました。

特に曹仁が布いた「八門金鎖の陣」を見破って勝利した場面は、演義を代表する名場面の一つです。

 

その後、程昱が徐庶の母の筆跡を真似た偽の手紙を送り、徐庶は母を救うため涙ながらに劉備のもとを去ります。

そして別れ際に諸葛亮を推薦したことで、「三顧の礼」へと物語がつながっていきます。

 

さらに赤壁の戦いでは、龐統の「連環の計」をいち早く見抜きながらも、

「曹操のためには決して策を授けない」と心に誓い、あえて沈黙を守ります。そして戦いの前に軍を離れ、

赤壁の敗戦に巻き込まれることなく姿を消しました。

 

演義における徐庶は、「劉備への忠義」と「母への孝」を最後まで貫いた人物として描かれ、

諸葛亮へと主役を引き継ぐ重要な役割を担っています。