劉楨(りゅうてい)
劉楨は文才に非常に優れており、
「建安七子」の一人に数えられた人物で、多くの作品を生み出しています。
そもそも建安七子とは何かというと、
献帝が治めた年号を建安(196年~220年)と呼んでおり、
その頃、曹操・曹丕・曹植のもとで、
活躍した7人の文人の事を指しています。
当時の劉楨は、
曹丕や曹植と親しく付き合っており、
曹丕の賓客として大事にされていました。
ある時、曹丕の妻であった甄姫(しんき)が宴席で挨拶した時、
他の者が平伏している中、劉楨が一人だけガン見した事がありました。
この出来事を聞いた曹操によって、
劉楨を牢獄にぶちこまれてしまいます。
この事件により、劉楨と共に曹丕の賓客になっていた呉質も
連座の罪でとばっちり(左遷)を受けてしまいます。
また曹丕は劉楨に対して、
「貴方はどうして法律を守らないのか?」と問うと、
劉楨は、「法律がしっかりしすぎているからです」
と返しています。
曹丕もこれを聞いて、苛立ちを覚えた事でしょうね。
曹丕と劉楨の逸話
ある時、曹丕が劉楨から、
革帯を借りようとしたことがありました。
そして曹丕が革帯を借りる際に、
「高貴な物は、卑しい人間より、高貴な人間が持っている方が良いのだ」
といって劉楨をからかったことがありました。
からかわれた劉楨は、
「物というのは、完成するまでに、
必ず卑しい人間が手を加えているんですよ」と曹丕に返したそうです。
王昶(おうちょう)の評価
王昶は、曹丕が太子だった頃から仕えていた家臣で、
最終的には「三公」である司空まで上りつめた人物です。
その王昶は、
劉楨について次のように評価しています。
「劉楨は、誠実な人柄で、
博学で才能もある人物だった。
しかし劉楨の人柄とその行動にはムラがあり、
自分を制御したり、人に遠慮するといったことが少なかった為、
長所と短所が同じぐらい目についた。
私自身は、劉楨を評価しているが、
私の子が劉楨を慕う事だけはしないで欲しい」と・・・