石徳林(せきとくりん)

石徳林は、雍州の安定郡の出身です。

 

石徳林は、若かりし頃、

安定から近い都市であった長安に赴き、

欒文博(らんぶんはく)という学者の元で学んでいます。

 

欒文博は、長安では名の知れた学者であり、

門下生が数千人いたと伝わっています。

 

そこでの石徳林は、

詩経や尚書の勉強をしていましたが、

後にそれらより方術を好んで勉強したようです。

 

 

馬超や韓遂が涼州・雍州で暴れ出すと、

石徳林は、長安から漢中へ一時身を隠しています。

 

漢中に移った石徳林は、

毎日老子や様々な文献を読んでのんびりした生活を送っていました。

 

しかし、馬超・韓遂の反乱を撃破し、

215年に曹操が漢中を制圧すると、石徳林は再び長安へ戻ります。

寒貧(かんぴん)

長安に戻ってからの石徳林は、

人と会う事を避けるようになり、乞食のような生活をし出します。

 

その生活は、食事は美味しいものを求めず、

季節に関わらず破れた木綿を繋ぎ合わせただけの服で生活し、

 

石徳林の様子を見た人が、食べ物や衣服の施しをしようとすると、

それを受け取ることを拒みます。

 

 

また石徳林が独り身で、貧しい生活を送っていた事から、

郡県から米が支給されていました。

 

石徳林はそれで生活していましたが、

足らない分だけを人に恵んでもらっており、

その際も、本当に最低限の必要な分だけだったそうです。

 

 

また人々が、彼の名前を聞いても答えなかった為、

見た目から「寒貧」と呼んだといいます。

 

これが元となって「素寒貧」という言葉が生まれ、

現在でも使われています。

石徳林の魏略での記載

魏の事を中心に記載された「魏略」には、

長安に戻ってからの彼の様子を以下のように述べています。

「石徳林は、阿呆(アホ)となって、人と面識を持つ事はありませんでした」

 

大方間違ってないでしょうけど、

人と全くというのは捕らえ方次第だと思います。

 

何故なら昔の石徳林を知っている者達は、

たまに石徳林の元を訪れた際は、

石徳林もまたひざまずいて知人に挨拶したそうですし。

石徳林と郭淮

ある時、郭淮(かくわい)が石徳林に対して、

「何か望みや欲しい物はあるか?」と質問すると、

それに対しても石徳林は、何も答えませんでした。

 

そこで郭淮が、乾肉・乾飯・衣服をプレゼントしますが、

生きる為に最低限必要な乾肉と乾飯を少しだけ貰っただけでした。

 

死ぬまで自分の意志を貫いた石徳林は、

そういう生活の中で自分だけの哲学を見出していたのかもしれませんね。

蒼天航路でも出番を与えられた寒貧

蒼天航路30巻の話ですが、曹操が韓遂・馬超を撃退し、

漢中の張魯を降した際に石徳林を訪ねた話が載っています。

 

まず曹操の家臣であった張既(ちょうき)の誘いを、

10年間断り続けている石徳林を曹操が気になった所から始まります。

 

石徳林と会った曹操は、

そのやりとりの中で気になるセリフをはいています。

蒼天航路(30巻139P)より画像引用

 

この「心腹の友」は、おそらくというか間違いなく、

少し前に自殺に追いやってしまった荀彧の事だろうし、

 

石徳林が荀彧を尊敬していた事も含めて、

曹操の台詞として反映させたのだと思います。

 

これは分かる人にしか分からないセリフですが、

王欣太(きんぐごんた)さんの粋なはからいだと思いました。

 

 

後は言葉で書くよりも

蒼天航路での石徳林と曹操のやりとりを見て欲しいので、

そのまま引用したいと思います。

蒼天航路(30巻140P〜142P)の画像引用

 

曹操と石徳林の最後の心での会話、

非常にグッとくる別れ方で締めくくられています。

 

曹操「貫けよ 寒貧」

石徳林「あんたもな 奸雄」

 

 

そして最後に「志は千里にあり 壮心やまず」という言葉を

置いてきたところにもセンスを感じます。

 

これは曹操が詠んだ、

「歩出夏門行」での言葉の一節で、

 

「老驥(ろうき)は櫪(れき)に伏すも志は千里にあり、

烈士暮年  壮心やまず」の一節から引用したものです。

 

ようは、「年老いても高い志を持ち続け、

その志を生涯貫いていけ」と石徳林に曹操は言ったのでした。