董襲(とうしゅう)

董襲は、会稽郡出身で、

身長は八尺(約184センチ)あり、武勇に優れた人物でした。

 

孫策が江東へ進出し、会稽郡を支配下に置くと、

董襲は孫策に仕え、孫策に従って各地を転戦していきます。

孫策の死

孫策死後、孫権が跡を継ぎますが、

孫権の母である呉夫人が、幼い孫権を心配して、

張紹・董襲を呼び出して尋ねた事がありました。

 

そうすると董襲は、

「江東の地は守りに適した土地で、

旧主である孫策様が民衆に恩徳を施し、孫権様がそれを受け継ぎました。

 

そして張昭殿が全てうまくいくように取り計らっており、

我々が孫権様の爪牙となっております。

 

地の利・人の和を兼ねており、何の心配もありません」

と答え、それを聞いて、呉夫人は安心しています。

鄱陽(はよう)郡での大規模反乱

 

孫権の時代にかわってから、

鄱陽で彭虎が中心となって数万人規模の反乱が起こります。

これを董襲・凌統・蒋欽・歩隲らが討伐に向かいますが、

 

董襲の向かうところ敵なしで、

この反乱は10日程度で鎮圧されています。

黄祖討伐戦

208年、孫堅の仇である、

黄祖が守る江夏に攻め込みます。

 

この時黄祖は、二隻の蒙衝船(もうしょうせん)を横にならべて。

江夏城の前線基地であった夏口の守備を整えていました。

 

そして黄祖は、縄に石をむすんで碇として、

船を固定し、弩を乱射してきたので、呉軍はそれ以上進むことができませんでした。

 

この時、董襲と淩統(りょうとう)の二人は、

それぞれに100人の決死隊を率いて、碇代わりにしていた縄を切ってしまいます。

 

縄で結んでいた石が沈んでしまうと、

蒙衝船は勝手に動き出し、流れ出してしまいます。

 

この状況を見た黄祖は、慌てて逃げだしますが、

追い付かれて討ち取られています。

 

その後、江夏城も淩統の活躍で陥落しています。

孫家三代(孫堅・孫策・孫権)を翻弄した黄祖

第一次濡須口の戦い

 

212年に起きた濡須口の戦い(第一次)で、

董襲の乗っていた船が強風によって沈没してしまいます。

これによって董襲は溺死してしまいます。

 

船が転覆しそうになった時、

周りの者達は董襲に避難するように進言しますが、

 

「孫権様に任されているからには逃げるわけにはいかない。

任務を放り出して逃げる奴は斬る!」と言ったとの記録も残っています。

 

孫権は、彼の葬儀に参列し、

残された遺族には手厚い援助を行なったそうです。

三国志演義での董襲

若い時から武力に優れた人物で、

呉郡で荒らしまわっていた厳白虎(げんはくこ)を討伐した事がきっかけで、

孫策に仕える事になります。

 

孫策死後は、孫権に仕え、

赤壁の戦いでも火を放ったりと活躍しています。

 

 

濡須口の戦いが起こると、

正史と同じく強風に船が煽られて、溺死してしまいます。

 

また三国志演義の方でも、

脱出を勧める部下を叱りつける場面は使われています。