周泰と孫権
周泰は蒋欽と共に孫策に仕えた武将ですが、
孫権が周泰の事を気に入ってしまい、
孫策に願い出る形で周泰は孫権直属の家臣になっています。
ある時に孫策が、山越族討伐に向かっていた頃、
孫権が宣城の留守を守っていました。
そんな宣城に対して、
数千人の山越兵が攻め込んできたことがありました。
宣城の城には、少数の兵しかいなかった為、
多くの者達が慌てふためき、孫権自身も窮地に陥ることとなりますが、
周泰が身を挺して孫権を守り抜いたのでした。
この時に周泰は、
全身に12カ所の傷を負い、
三途の川をさまよったほどの重体だったといいますが、
奇跡的な回復力を見せたそうです。
この話を聞いた孫策は、周泰に非常に感謝し、
春穀県の長に任じて周泰の功績に報いたのでした。
徐盛・朱然と周泰の因縁
孫策が死去し、孫権が跡を継ぐことになると、
周泰は赤壁の戦い・濡須口の戦いで手柄を立てていきます。
それらの手柄によって周泰は、濡須の督になり、
平虜将軍に任命されています。
そして周泰はこのあたりの頃から、
徐盛や朱然が周泰の指揮下に入ることになるのですが、
徐盛・朱然が上官である周泰が、
理由は分かりませんが大変に気に入らなかったといいます。
だからこそ徐盛・朱然の二人は、
周泰の指示に耳を傾けずに逆らう事も多かったようです。
周泰は徐盛・朱然の二人の態度を改めさせる事ができずにいたのですが、
二人が周泰を認めるに到る出来事が起こります。
それはかつて周泰が命懸けで守り、三人の主人でもある孫権でした。
周りに周泰を認めさせた孫権の行動
徐盛が周泰の命に逆らっていると聞いた孫権は、
濡須の砦まで足を運んで大規模な宴会を開きます。
そして孫権は宴会の中で、周泰に服を脱がせ、
体中にある傷の由来を語らせたといいます。
そして孫権から指をさされた多くの傷が、
孫権を守る為についた傷であったのです。
「周泰がいなければ今の自分はいなかった」
と孫権は涙ながらに語ったといいます。
このやりとりを目の当たりにした徐盛や朱然は、
その後周泰の指示には逆らう事はなくなったのでした。
その後の周泰
夷陵の戦い直後に、
濡須督として濡須口を守っていたのが周泰ですが、
襲ってきた魏軍を撃退したと記録には残っています。
この戦いは、濡須口の戦い(三方面の戦い)の
本当に序盤的な戦いだったと個人的には思っています。
なぜなら濡須督を周泰の後に引き継いだのは朱桓であり、
朱桓が濡須口の戦い(222年~223年/三方面の戦い)で、
曹仁の軍勢を長期戦の末に打ち破っているからですね。
そんな周泰ですが朱桓が濡須督を引き継いでいることからも、
222年に死んだと一般的には言われています。
ただ229年付近まで生きた説もあったりしますね。
そう言われるのは、周泰の子である周邵が跡を継いだけれども、
その周邵も230年に亡くなってしまったことからも、
229年に周泰が死亡して、
周邵が爵位を引き継ぐも、翌年にすぐになくなったという流れですね。
一言で言ってしまうと、
「周泰が黄武年間に死亡した!」
と書かれているのがそもそもの原因ですけどね。
黄武年間は222年から229年までを言うので、
まぁあくまで可能性です。
「三国志演義」での周泰
周泰と蒋欽の二人は、
もともと海賊という設定で登場します。
孫策が挙兵すると、その陣営に二人は加わることとなります。
劉備が関羽の復讐戦として、
呉に攻め込んできた夷陵の戦いでは、
劉備に味方した武陵蛮の沙摩柯(しゃまか)を、
一騎打ちで討ち取る役割まで・・・
ちなみにですが、夷陵の戦い直後に死んだとされている周泰ですが、
実際に夷陵の戦いに参加したのかどうか、
参加していたとして活躍していたのかなどは分かりません。
ただ元海賊同士という繋がりも含めて、
甘寧は「演義」では、
沙摩柯に矢で射ぬかれて死んだ事になっています。
そしてその沙摩柯は周泰に・・・
周泰も甘寧も元海賊であり、
そこを「演義」では繋げているのでしょうね。