王威(おうい)

王威は劉表に仕えていた家臣で、

劉琮亡き後は、劉琮に仕えています。

 

曹操が荊州へ侵攻してくると、蔡瑁らの進言もあって、

戦わずして劉琮は荊州を曹操に明け渡してしまいます。

 

劉備は劉琮が降伏したのを知ると、

住民を引き連れて夏口へ落ち延びていっています。

実は曹操と戦う気でいた劉琮

 

この時王威は、「曹操は劉琮様を降し、

劉備が落ち延びた事で、完全に油断しているはずです。

 

もし私に数千の兵を預けて頂けるなら、

曹操を捕虜にしてみせます。

 

見事曹操を捕らえる事に成功したならば、

天下を治める事も夢ではありません」と劉琮に進言しています。

 

しかし劉琮は、

王威の提案を聞き入れませんでした。

 

 

その後の王威がどうなったかは記載が残っていませんが、

劉琮は青州太守に任命され、現地へ赴いている事からも、

おそらく劉琮にそのまま仕えて、一生を終えた可能性が高いと思います。

三国志演義での王威

正史と同じく、

劉表の配下として登場しています。

 

そして蔡瑁の劉備暗殺計画にのり、

文聘(ぶんへい)と共に劉備の護衛をしていた趙雲を引き裂ける役目を任されています。

赤壁の戦い以後も、実は生きていた蔡瑁

江夏を守り抜いた忠義の士「文聘」

 

最終的に蔡瑁が計画した劉備暗殺計画は、伊籍の進言もあり、

劉備はなんとか逃げ延びる事に成功しています。

蜀の法律「蜀科」を作成した一人「伊籍」

 

劉琮が降伏すると、劉琮と蔡夫人(劉琮の母)と共に青州へ向かいますが、

曹操の命令を受けた于禁によって途中で全員殺害されています。

 

ちなみにですが、劉琮と共に青州へ向かったのは、

旧臣の中では、この王威だけとなっています。