武陵太守の金旋

金旋雍州京兆郡の出身で、金旋の先祖は匈奴出身なのですが、

前漢全盛期を築いた武帝に信頼された金日磾きんじつていにあたります。

 

それからの金旋の祖先は、漢王朝に長らく仕えてきた一族という立ち位置になります。

 

そういうこともあり、金旋は黄門郎や漢陽太守を歴任しており、

その後は議郎や中郎将兼武陵太守を務めています。

 

 

そして曹操が荊州に攻め込んで劉琮が降伏すると、

荊州南部の四郡に、金旋・劉度・趙範・韓玄らを送り込んでいます。

その時に武陵太守を任されたのが金旋でした。

 

ただはっきり言ってしまうと、

曹操がこの四人を荊州南部へ送り込んだという記録はありません。

 

しかし荊州南部での豪族だったという記録もない点からも、送り込んだ可能性が非常に高いと言えます。

 

特に金旋の素性の場合は、素性がしっかりしている点からも、

曹操から送られたと考えるのが自然な人物です。

金日磾なる人物

金日磾は前漢時代の武帝(劉徹)に仕えた人物ですが、

もともとは匈奴の休屠王の太子だった人物でもあります。

 

金日磾は次第に武帝に信頼される人物へと成長していき、最終的に金姓を賜りました。

そして武帝の臨終の際には、前漢の第八代皇帝となる昭帝の補佐を任されるまでとなります。

 

ただ金日磾はその後一年余りで亡くなってしまうわけですが、

彼には次のような逸話が残されています。

金日磾の二人の息子は、武帝に大変に可愛がられました。

 

しかし二人の息子が遊び盛りとなると、慎みを忘れた言動を取るようになっていきます。

その様子を見た金日磾は嘆き、二人を殺害したのでした。

金日磾の余談&先見の明(先見之明)

楊彪は曹操、そして息子である曹丕に仕えた人物ですが、

息子の楊修は曹操によって処刑されてしまいます。

 

これがきっかけとなって楊彪は痩せていったわけですが、曹操が楊彪に痩せた理由を尋ねます。

 

これに対して、楊彪は次のように語ったわけですが、

この時の言葉が由来となって誕生したのが「先見の明」になります。

「後漢書」楊彪伝愧無日先見之明猶懐老牛舐犢之愛

 

私には金日磾殿のような先見の明を持ち合わせていなかったことが理由であり、

老牛が子牛を舐めて愛おしむようなもので ございました。

(私が息子を溺愛していたからに他なりません。)

 

この時の楊彪の言葉から、

先見の明(先見之明)という故事成語が使われるようになりました。

 

ちなみに先見の明だけではなく、「舐犢之愛しとくのあい舐犢の愛)」という故事成語もまたこの時に誕生した言葉になります。

親が息子を溺愛するといったような意味合いですね。

劉備の荊州南部平定戦

赤壁の戦いで曹操が敗れると、劉備は荊州南部の平定へと動きだします。

 

この時に武陵を守っていた金旋は、

劉備軍に適わないと判断して降伏を申し込みますが、劉備は金旋を許しませんでした。

ゆえに金旋は戦わざるをえなくなります。

 

他の零陵太守(劉度)・桂陽太守(趙範)・長沙太守(韓玄)の三人は、

劉備に降伏が許されたの対して、何故か金旋だけ拒否されたのか不思議な所です。

 

とりあえず劉備が降伏を許さなかった理由は分かりません。

そして戦いの末に、金旋は劉備に討ち取られています。

 

この内容は「蜀志」先主伝(裴松之注「三輔決録注」)に記載されている内容ですが、

「蜀志」先主伝の本文の方では金旋含め四人の太守は全て降伏が許された事が書かれてあります。

 

 

また金旋には金禕きんいという息子がいましたが、

耿紀こうき韋晃いこう吉丕きつひと共に曹操打倒の為の反乱を起こしますが、結果として失敗に終わります。

そして金禕は処刑され、これにより血脈は途絶えてしまうのでした。

三国志演義の金旋

横山光輝三国志(28巻129P)より画像引用

 

三国志演義の金旋は、正史と同じく武陵太守として登場します。

 

張飛が攻めてきた際には、金旋配下の鞏志きょうしが降伏を勧めるも、

その言葉を聞かずに張飛に戦いを挑んで見事なまでに蹴散らされています。

そして武陵の城へと逃げてきた金旋ですが、金旋が城の中に二度と戻る事はなかったのです。

 

鞏志が金銭を見捨て、劉備に降伏する為に門を閉ざしてしまっていたのでした。

そればかりか悪戯に無謀な戦を挑んだ金旋を非難し、矢を放って撃ち殺してしまいました。

 

鞏志は金旋の首をもって張飛に降伏し、劉備から金旋に代わって武陵太守に任じられています。

ちなみにですが、鞏志は三国志演義にのみ登場する人物となります。