韓遂が率いた手下八部とは?
韓遂が馬騰・馬鉄・馬休が都に呼び出され、
曹操の罠にかかり殺害されてしまいます。
これに怒りを覚えた馬騰の長男である馬超に、
韓遂が味方し、曹操に刃を向けます。
その時、韓遂が率いた8人の勇将をまとめたものを、
「手下八部」と呼んでいます。
本来は、韓遂が率いたというものではなく、
それぞれに関中に勢力を持っていた有力軍閥なので、
その点からも「関中八部」と呼ばれたりします。
ちなみに韓遂・馬超を加えると、「関中十部」になります。
正史ではあくまで対等な立場なのです。
「手下八部」というのは、あくまで三国志演義での設定に過ぎません。
今回は、この手下八部に数えられる8人を見ていきたいと思います。
- 楊秋(ようしゅう)
- 成宜(せいぎ)
- 李堪(りかん)
- 程銀(ていぎん)
- 侯選(こうせん)
- 張横(ちょうおう)
- 馬玩(ばがん)
- 梁興(りょうこう)
楊秋
賈詡の離間の計によって、馬超と韓遂が仲違いした際に、
韓遂が降伏する為に、曹操の元へ使者と楊秋を遣わしています。
その際に三公に次ぐ、列侯に採り立てられます。
正史の方での楊秋は、
韓遂・馬超が敗北すると、楊秋は安定郡に逃走しています。
その後、安定郡まで追ってきた夏侯淵と張郃に降伏します。
曹操の陣営に降ってからの楊秋は、討寇将軍に昇進し、臨涇侯に封じられています。
手下八部と数えられた中で、最も出世したのが楊秋になります。
成宜
曹操相手に活躍を見せるものの、
曹操の本陣を偵察に行った際に伏兵にかかり、夏侯淵によって討たれています。
正史での成宜は、
韓遂や馬超と並んで名前がちらほらと並べて書かれている事からも、
8人の手下八部の中でも、
大きな勢力を築いていた人物だったと思われます。
実際、この後曹操が魏公になる際も、
成宜を討った事を功績の一つとして挙げられてる点からも大きな勢力だったのでしょう。
李堪
李堪・程銀・侯選は同郷。
渭水の戦いで、賈詡の離間の計により馬超と韓遂が仲違いすると、
そこをついた曹操によって攻撃を受け、于禁が放った矢を受けて戦死しています。
正史での李堪も演義と同様に、賈詡の離間の計によって馬超と韓遂が仲違いすると、
そこを曹操に攻められて戦死しています。
程銀
李堪・程銀・侯選は同郷。
程銀は、渭南で曹操に敗れて、張横と共に戦死しています。
正史での程銀は、潼関の戦いで奮戦するも最終的に敗れ、
同郷の侯選と共に張魯の元へ落ち延びています。
張魯が曹操に降った後は、程銀・侯選も曹操に降っています。
侯選
李堪・程銀・侯選は同郷。
賈詡の離間の計で、馬超と韓遂が仲違いすると、
そこを曹操につかれて連合軍は破れてしまいます。
その後韓遂らと共に曹操に降ると、列侯に封じられています。
正史での侯選は、潼関の戦いで敗れた後、
同郷の侯選と共に張魯の元へ落ち延びています。
張魯が曹操に降った後は、侯選・程銀も曹操に降っています。
張横
渭南で曹操に敗れて、程銀と共に戦死しています。
正史での張横は、韓遂や馬超と共に反乱を起こしたとあるのみで、
詳細な記載は残っていません。
正史でも演義でも張横の詳しい詳細は残っていません。
馬玩
賈詡の離間の計で馬超と韓遂が仲違いを始めると、
韓遂は曹操に降伏する事を決意します。
その際に、馬超を殺害する計画を練っていましたが、
そこに馬超がやってきます。
この時に怒りを爆発させた馬超によって、真っ先に馬玩は斬り捨てられています。
韓遂もまた馬超によって左腕を斬り落とされてしまったわけです。
ちなみに正史での馬玩は、馬超や韓遂らの反乱に加わったとあるのみで、
詳細な記載は何も残っていません。
梁興
賈詡の離間の計で馬超と韓遂が仲違いを始めると、
韓遂は曹操に降伏する事を決意します。
その際に、馬超を殺害する計画を練っていましたが、
そこに馬超がやってきます。
その際に、馬玩の次に切り捨てられたのが梁興になります。
正史での梁興は、潼関の戦いの際に、4000人を率いた徐晃・朱霊に対して、
5000人の兵を持って強襲しますが、返り討ちにあっています。
馬超・韓遂らの反乱が鎮圧されて後も、最後まで抵抗を続けたのが梁興です。
ですが最終的に、夏侯淵によって討ち取られています。
まとめ
三国志演義では、この反乱は、
馬超・韓遂を筆頭としたように描かれています。
しかし、正史ではあくまで勢力の強弱はあるものの、
それぞれが独立した勢力圏を築いている軍閥の集合体だったのです。
潼関の戦いでは、10人の軍閥が同盟を組んで、
曹操に反乱を起こしたという見方が正しい所です。