離間の計

「離間の計」とは、

 

親しい者を疑わせる為の情報を流し、

疑心暗鬼に陥らせ、仲間割れをさせることで力を削ぐ計略になります。

 

これは三国志の時代に関わらず、様々な時代で使われた計略の一つです。

 

 

実際にここで実例として紹介している潼関の戦いは、

あくまで三国時代の一つの例であって、

 

三国時代という縛りの中だけでも、数多くの離間の計が実行されていますが、

一番有名なのは、馬超・韓遂が曹操が激突した潼関の戦いでしょう。

 

 

ちなみにこれは正史にも記録が残ってる計略ですが、

 

三国志演義に登場する「二虎競食の計」「駆虎呑狼の計」「美女連環の計」なども、

一言で言ってしまえば「離間の計」になります。

 

 

「二虎競食の計」「駆虎呑狼の計」は、

どちらも劉備と呂布の関係を崩そうとした計略ですし、

 

もう一つの「美女連環の計」も、王允・貂蝉による色恋を利用して、

董卓と呂布の関係を崩そうとした計略ですからね。

二虎競食の計

駆虎呑狼の計

「離間の計」が用いられた潼関の戦い/正史&三国志演義

横山光輝三国志(32巻36P)の画像引用

 

「離間の計」は、

曹操が馬超・韓遂との戦いの際に用いられた計略で、

 

この計略を提案したのが賈詡かくでした。

 

 

まぁ正確には馬超・韓遂ではなく、

「関中十部」と呼ばれる関中軍閥による連合反乱になりますね。

 

【関中十部】

馬超・韓遂・楊秋・成宜・李堪

程銀・侯選・張横・馬玩・梁興

韓遂の手下八部(関中八部)

 

 

 

賈詡はもともと涼州出身であり、流れに流れて曹操に仕えるようになった人物で、

韓遂や馬超の事はよく知っていました。

 

 

韓遂と馬超の父親である馬騰は義兄弟の契りを結びながらも、

その後対立して血みどろの争いを繰り広げていた事・・・

 

その中で韓遂が馬騰の妻子を殺害した事もありました。

 

 

最終的に曹操(鍾繇)が間に入る事で、韓遂と馬騰は和議を結んだりはしていますが、

あくまで表面上の事だけだったと思いますし、

 

何より馬騰の息子である馬超も、

韓遂を心の奥底ではよく思っていなかった事でしょう。

 

 

だからその一つとっても二人の間には、つけいる隙があったわけですね。

夢梅老人の「氷城の計」

馬超・韓遂の激しい抵抗により、

曹操は潼関の戦いで、結構な苦戦を強いられます。

 

曹操に関しては不意をつかれたことで討死しかけたほどでした。

この時は許褚のお陰もあって、九死に一生を得たといいますが・・・

 

 

戦いも二カ月に及び双方ともに決着がつかず、膠着状態が続きます。

 

そこでまず使われた計略が、

夢梅老人(正史での名前は婁圭)による氷城の計でした。

 

分かりやすく言うと「一夜で作った氷城」のことですね。

 

 

ただ正史にも記載が残っている「氷城の計」ではありますが、

閏8月に行われたと記載があることから、

 

「この季節に寒いわけがない、でたらめな記述だ!!」

と注釈を加えた裴松之も非難していることでも知られている計略です。

 

 

閏8月は現在でいう9月に位置するので、

約1800年ほど前の時代ということと比較的北方での戦いであったことから、

 

絶対に嘘とは言い切れないかなとも思っていたりします。

 

 

まぁどちらにしても、

三国志演義だけにしか登場しない計略が多い中で、

 

正史に記載が残っているだけで十分に凄い計略だと思いますけどね。

氷城の計

賈詡の「離間の計」

戦いが長引くにつれ、馬超・韓遂にも疲れが見え始めます。

 

そこで曹操に和議を申し込むわけですが、

この時に仕掛けたのが賈詡の「離間の計」でした。

 

 

正史の方では、

「離間の計を用いて仲違いさせた!」

と簡単な記載しかないので、

 

ここでは三国志演義の内容として基本的に話を進めていきます。

 

 

曹操と韓遂の父親は、

曹操と同時期に「考廉」にあげられたりしたこともあり、

もともと韓遂とも顔なじみでした。

 

まぁこれは正史に書かれてある内容ですが・・・

 

 

そういうこともあって曹操は、

韓遂に対して「二人で話し合おう」と持ち掛けたわけです。

 

和議を希望していた韓遂は普通に応じたのですが、

ここで曹操は大事な話は全くせず、雑談だけして会談は終わります。

 

 

後に馬超が「どういった事を二人で話されたのだ?」と問いかけると、

 

韓遂は「雑談をしただけの会談であった。」

と答えたことで、馬超の中に疑いの心が生まれます。

 

 

 

そして次に曹操が仕掛けたのが、

文字を何度も修正したような跡の残る手紙を韓遂へと届けたのです。

 

 

これを見た韓遂は意味がよく分からないままでしたが、

 

この手紙を韓遂から見せてもらった馬超は

「都合が悪い個所を自分で削除したのではないか!?」

と更に韓遂を疑うようになっていったのでした。

 

 

韓遂は身の潔白を証明すべく、

「再度曹操と会談を開くので、その際に曹操を殺したらよい!」

と馬超にもちかけ、馬超もその案に首を縦に振ります。

 

 

そして再度会談を開いた韓遂と曹操ですが、

 

曹操は「先日の約束を忘れぬように!」と一言だけ言って、

ささっと引きあげたのでした。

 

これによって馬超は、

「韓遂と曹操の間になんらかの密談がされた!」

と判断したことで二人は完全に仲違いを始めてしまいます。

 

 

ちなみに曹操を襲うはずであった馬超ですが、

「曹操の傍に許褚がいたので、馬超は曹操に手が出せなかった」

という風に記載が残っていたりもしますし、

 

三国志演義でもそのように描写されていますね。

 

 

そして馬超と韓遂が完全に決裂した所に曹操は攻撃を仕掛け、

潼関の戦いに勝利したという流れになります。