公孫淵(こうそんえん)

幽州の端にある遼東半島で長らく地盤を維持していたのが

公孫一族になります。公孫瓚とはまた別の一族です。

190年~191年(反董卓連合の結成)

 

遼東半島で力をつけたのがもともと公孫度(こうそんど)ですが、

公孫度がこの世を去ると、子であった公孫康(こうそんこう)が跡を継ぎます。

公孫度の反乱を未然に防いだ涼茂(りょうぼう)

 

公孫康が亡くなると、

弟の公孫恭(こうそんきょう)が跡を継いでいたのですが、

 

公孫康の子である公孫淵が成人すると

叔父である公孫恭を脅迫して、遼東太守を乗っ取ってしまいます

 

長らく曹操に従属する事で地盤を維持してきた一族ですが、

公孫淵は遼東太守を奪っただけに納まらず、更に野心が大きくなっていきます。

 

ただ公孫淵は、公孫恭から遼東太守の座を奪いますが、

魏に対しては、これまで同様従属の形を継続します。

 

しかしこれはまだ太守について間もない為、

表向きの考えでしかありませんでした。

魏と呉の二股外交

公孫淵は、魏に従属している形を取りながらも、

呉の孫権ともよしみを結び、孫権から「燕王」の称号を頂きます。

 

孫権にとっては、後方で魏を脅かしている勢力が欲しく、

公孫淵に忍び寄ったのでした。

 

この瞬間、形上中国に4つの王朝が誕生した事になります。

  • 曹叡(魏皇帝)
  • 劉禅(蜀皇帝)
  • 孫権(呉皇帝)
  • 公孫淵(燕王)

 

当たり前の事ですが、この知らせが魏に入ると、

曹叡は不快感を示します。

呉の孫権を裏切る

二股外交をやった公孫淵ですが、

孫権より燕王に任命されたのもつかの間、

 

呉と燕は離れすぎていて、

魏を敵に回すほどのメリットもないと感じてか、

呉の使者として公孫淵を訪れていた張弥・許晏・賀達の3名を殺害し、

その首を曹叡に送り、再度従属の形を取ります。

 

曹叡は何度も相手を変えるとは信用ならないと思うものの

南方の蜀呉以外に、北方の公孫淵までを敵に回したくない事から目をつぶり、

公孫淵を大司馬に任命し、楽浪公に封じています。

 

ちなみにこの事が原因で孫権と張紹は大喧嘩してます。

孫権が張昭の家を燃やすまでに発展した大喧嘩!

 

しかし曹叡の中で魏を裏切り、

魏と呉の二股外交で渡り歩いた公孫淵を信用できない気持ちがあり、

 

公孫淵に対して一度都へくるように、

幽州刺史であった毌丘倹(かんきゅうけん)を使者として送ります。

公孫淵、独立を宣言する

 

毌丘倹から都へくるように話を聞いた公孫淵ですが、

それに応じないばかりか毌丘倹らを攻撃します。

 

これに対して、毌丘倹らは応戦しますが、

不運にも遼水が氾濫してしまい、形勢不利になったこともあり、

毌丘倹は逃げ帰ります。

 

 

今回の勝利で公孫淵は気分を良くしたことで、

燕王を正式に名乗り、魏へ宣戦布告します。

そして元号を「紹漢」と決定します。西暦237年のことです。

 

漢字から見ても想像がつくと思いますが、

「漢を継いだ国ですよ」といった意味が含まれています。

 

これにより公孫淵は、魏と呉の両方を敵に回すことになり、

公孫淵自身は、両方と対等の立場に立てたと思ったのでしょうね。

司馬懿、公孫淵討伐に出陣する

 

公孫淵の反旗が明らかになると、

曹叡は司馬懿に4万の兵を預け、討伐に向かわせます。

 

公孫淵と3度激突しますが、

3度とも司馬懿の圧勝で終わっています。

 

襄平城に籠城するしかなくなった公孫淵ですが、

これ以上抵抗できないと踏んで、降伏を申し出ますが、

 

何度も魏を裏切っていた公孫淵を許すわけもなく、

最終的に司馬懿に捕らえられて惨殺されています。

 

 

また今回の反乱の見せしめとして、

公孫瓚から任命された将軍ら2000人程度、

15歳以上の男子7000人程度も処刑されています。

 

公孫淵は燕を建国して、

たった1年余りで滅亡の道を歩んだわけです。

 

 

 

そして、公孫淵の影響化にあった遼東郡・楽浪郡・帯方郡・玄菟郡の4郡が、

魏の支配下に置かれる事になります。