山越族とは?

山越とは揚州に住んでいた民族で、

孫策時代からこの地で反乱を起こしてきた民族でした。

 

実際この山越討伐には、

黄蓋・周泰・陸遜・陸抗・陸凱などそうそうたる人物が討伐しています。

 

しかし何度討伐しても、

一時的な解決にしかならなかったのが山越でした。

 

 

山越の反乱は、皇帝に即位してからも孫権を悩ませ続け、

呉蜀で同盟を結んで魏侵略を計画した際も兵力を山越の反乱に割かなければならず、

うまく蜀と連携できなかった理由の一つでもあります。

 

もし山越の存在がなければ、

蜀とうまく連携し、魏を壊滅できた可能性もあったかもしれません。

それぐらい呉にとっては心臓の病みたいなものでした。

 

そんな中、諸葛瑾の子である諸葛恪が、

この山越の懐柔に成功し、過去一と言っていいほどの功績をあげる事に成功します。

これまでの山越対応

 

孫策の時代から長らく山越に対しての対応は、

基本的に討伐して、強制的に従わせるというものでした。

 

これによって一時的に周辺の山越の民は帰順するのですが、

ほとんどの山越の民はすぐに山の奥地に隠れてしまい、

それ以上手に負えなかったというのが正直な所でした。

 

その為、表面的な対応しかできていなかったのです。

諸葛恪の山越懐柔策

 

そんな状況にあった呉ですが、

諸葛恪が山越族の対応を願い出ます。

 

周りの者達は、山越を帰順させることは無理だといいますが、

それでも諸葛恪は「自分にはできる!」と言い放ち、

 

自らが赴く事で、3年の間に山越の民を帰順させ、

その山越の民から4万の兵を作って見せると豪語します。

 

これを聞いた孫権は、234年に諸葛恪に山越対応を任せ、

山越が拠点にしていた丹陽郡の太守に任命します。

 

諸葛恪はこれまでのやり方をしていたのでは、

根本的な解決にならないと徹底した懐柔策を用いていきます。

諸葛恪の作戦

 

丹陽郡太守として赴いた諸葛恪は、

まず丹陽郡と接していた隣郡の呉郡・会稽郡・新都郡・鄱陽郡の長吏に対して、

それぞれの郡の境を徹底的に守るように指示します。

※新都郡は、208年に孫権によって丹陽郡を分割してできた郡

鄱陽郡は、210年に孫権によって豫章郡から分割されてできた郡

 

そして部隊編成をきちんとして、

領民を同じ場所にまとめて住まわせるように言います。

 

これらの指示は、山越に略奪をさせないようにするための対策でした。

 

 

そして次に諸葛恪がやった事は、

丹陽郡で山越の拠点になっていた山奥の要地を抑えていきます。

 

その際も武力衝突しないように徹底しており、

争いが起こる事がありませんでした。

 

しかし収穫の時期になると、山越の民が育てた穀物も残らず収穫して、

山越の民に食糧確保できないようにします。

これにより山越の民は山を降りて帰順せざるを得なくなります。

 

また諸葛恪は、山から降りてきた山越の民を傷つけたり、

捕縛してはいけないという命令を出していました。

 

この命令に背いた者は、

容赦なく処刑されたりしたぐらいの徹底ぶりでした。

結果

これらの諸葛恪の対応が山越の民に伝わると、

安心したのかこぞって帰順してきます。

これによりかつてないほど山越の民を帰順させることに成功したのです。

 

諸葛恪は孫権と約束した通り、帰順した山越の中から屈強な者を選別し、

4万人の兵士を作り上げる事に成功します。

 

この結果を知った孫権は大喜びし、

諸葛恪は威北将軍に任命し、都郷侯に封じています。

 

 

諸葛恪の父は諸葛瑾であり、諸葛亮の兄でもあります。

孔明は南蛮討伐をする際にも心で従わせる対応をしました。

孔明と孟獲(南蛮討伐/七縦七擒)

 

もしかしたら叔父にあたる諸葛亮を参考にし、

心から従わせなければ意味がないことが分かっていたのかもしれませんね。