鄭泉(ていせん) -酒飲み&酒好き-

孫権は無類の酒好きで有名な上に、酔った質が悪い事でも知られていますが、

そんな孫権は、同じ酒好きとして知られる鄭泉ていせんが人として好きだったようです。

 

ちなみに孫権は酒の上での失敗談は数知れず、

張昭に水をかけた逸話であったり、虞翻斬り捨てようとした逸話は有名ですね。

 

 

孫権談もそうですが、実際に三国志の世界では、

他にも酒で失敗した人物の逸話が色々と残っていたりしますが、

 

鄭泉は「酒が大好き!」であるにも関わらず、

酒の上での失敗がないばかりか、生涯に渡って酒を純粋に楽しみ尽くしたような人物でした。

 

 

「竹林の七賢」の一人として知られる劉伶も、

逆に「天晴れ」と思えるほどになかなかに酒の逸話が豊富な人物ですが、

 

おそらく鄭泉も劉伶と似たような人物だったような気もします。

孫権は酒癖が悪い!

「竹林の七賢」の中でも酒の逸話が尽きない劉伶(りゅうれい)

酒好きの逸話満載の鄭泉

鄭泉についての事は、「呉志」呉主伝に裴松之が注釈を加えており、

韋昭(韋曜)の「呉書」に書かれたものが加えられています。

 

 

鄭泉についての多くの情報はここに記載されている情報であり、

 

他にも劉備への使者として赴いた事から、

「蜀志」先主伝との注釈にも鄭泉との会話の内容が残っています。

 

 

そんな鄭泉ですが、あざなを文淵といい、

陳郡の出身であり、博学な人物であったといいます。

 

ちなみに陳郡というか、正式には豫洲の陳国の事だと個人的には思ってます。

かつて陳王として劉寵が治めていた場所ですね。

 

 

そんな鄭泉が常々言っていた事は、

「五百斛の大船を酒で一杯に満たして、

季節ものの美味しい食べ物を自分自身の左右に置きつつ、

 

酒の中に潜ったりしながら酒を飲みたい。

 

 

そして疲れたら御馳走を食べ、

飲んで減った分の酒を継ぎ足して暮らせれば、

 

どれほどに幸せなことであろうか!?」

と言葉に出して言うほどの酒が大好きな人物だったのです。

名君(孫権)&名臣(鄭泉)

鄭泉というと、どうしても酒好きに関しての事が取り上げられてしまいますが、

仕事をきちんとできていた人であったことは案外知られていません。

 

孫権が鄭泉を郎中に任じたわけですが、

孫権が道に外れそうな際には強く諫める事も多かったようです。

 

ある時に孫権が鄭泉に対して、

「お前は多くの者がいる中で、

私を諫める事を好んでいるように見える。

 

それは時に礼と敬を失している。

私の逆鱗に触れる事を恐れたりせぬのか!?」

と問うたことがありました。

 

 

 

これに対して鄭泉は、

「主君が名君であれば、

臣下は直が良いと聞いています。

 

 

そして我が主君は仁愛に優れた方なので、

こんなことぐらいで逆鱗に触れない事を良く分かっていますので、

 

恐れることは全くありません」

と返答し、孫権が大いに喜んだ逸話が今に伝わっていたりします。

 

 

そして後に宴を開いた際に、孫権が鄭泉に悪ふざけをしかけたことがありました。

 

孫権は鄭泉を怖がらせようと、

席から引きずり出して取り調べようとしたことがあったのですが、

 

この際に鄭泉は孫権の方を振り向いたといいます。

 

 

その後に鄭泉を呼び戻させ、

「お前は私の逆鱗に触れる事を恐れぬと言いながら、

実際に連れ出した際に、何故に私の方を振り返ったのだ!?」

と微笑みながら問いかけたのですが、鄭泉は次のように返答しています。

 

 

「私は主君の仁愛を信じていましたので、

死罪になる心配は全くしておりませんでしたが、

 

ただ退席する際に主君の威光を感じ取り、

振り返らずにはおれませんでした」と・・・。

劉備との国交修復に尽力する

孫権は魏の曹丕と手を組み、荊州争奪戦で見事に勝利を収め、

見事に関羽を討ちとる事に成功しています。

 

劉備は荊州奪還の為に呉への東征を決意したわけですが、

その準備の最中で関羽同様に付き合いの長かった張飛までもが殺害される事に・・・

 

犯人は部下の范彊・趙達ですが、

二人は張飛の首を持って孫権の下へと降っていったのでした。

 

 

劉備は関羽に引き続き、張飛の死(221年6月)を大きく悲しむものの、

その約一か月後の221年7月に東征を開始します。

 

そして順調であった劉備の侵攻も、孫桓が守る夷道の城を落とす事ができないばかりか、

陸遜の火計により大敗してしまうのでした。

 

 

劉備は命からがら白帝城への退却に成功するわけですが、

 

これによって劉備軍の指揮官であった馮習や補佐官であった張南をはじめ、

傅彤・馬良・程畿・沙摩柯など多くの者達が討死してしまう事に・・・

 

 

劉備の生涯をかけた集大成とも言えたこの戦いでの大敗は、

劉備が生きる希望すら失ってしまう程の事であったように想像します。

 

 

 

その後に「蜀志」先主伝では、

孫権から使者が送られたような記載がありますし、

 

「呉志」呉主伝に加えられている「江表伝」の注釈を見る限りは、

劉備から使者が送られたように記載が残されています。

 

それぞれの立場からの記載の可能性もあるでしょうが、

個人的には劉備が使者を送ったというのが可能性が高いように思います。

 

 

そしてこの蜀呉の関係修復の為に呉から送られたのが鄭泉であり、

夷陵の戦い後の約四カ月後にあたる222年12月の出来事ですね。

 

 

この時の劉備は体調を崩している段階ではありましたが、

 

最悪でも孫権との関係を修復しておく事は、

もしも自分自身に何かあった際の絶対条件だと思っていたことでしょう。

 

そして劉備の元を訪れた鄭泉に対して、

「孫権殿から返書がないということは、

まだ私の行動を怒っているのか?」

と劉備が問うと、鄭泉は次のように返答しました。

 

 

「曹操・曹丕は漢王室をないがしろにし、最終的に皇帝の位を奪うにいたりました。

 

劉備様は、漢王室の宗室にあたるからこそ、

漢王朝を守るように行動を起こすべきだったと思います。

 

しかし、魏打倒の為に先駆けとなられるどころか、

劉備様は自ら皇帝を名乗られました。

 

そもそも簡単に皇帝を名乗るものでありませんし、

それは天の声に逆らうようなものです。

 

だからこそ我が主人である孫権様も返事が書けずにいるんです。」

 

 

 

鄭泉の言葉を聞いた劉備は、

皇帝を名乗ったばかりか、呉へと攻め入った事を恥じ入ったといいます。

 

ただこの事があってからというもの、

呉蜀の関係修復に見事に成功しています。

 

 

 

それから僅か四か月後、国交回復ができた事に安心したのか、

後の事を諸葛亮に託し、劉備はこの世を去ってしまったのでした。

 

 

またこの逸話を最後に、その後の鄭泉がどのような生涯を送ったのか

 

そのあたりの記録は今に伝わっていませんが、

どことなく想像がつくのも鄭泉らしさかなと思います。

鄭泉の最期の遺言

鄭泉は自分の死期が近づいた際には、

 

「自分が亡くなったら、陶器職人の家の傍に埋葬して欲しい」

と仲間に頼み込んだ逸話も残されています。

 

 

そして何故に陶器職人の家の傍と言ったのかについても、

理由もきちんと記載されています。

 

「百年もするうちに、私の体は完全に土に還っていき、

 

陶器職人が偶然にもその土を使って酒壺を作ってくれることがあれば、

私にとってそれほどの幸福な事はないだろう!」

といった鄭泉らしい理由でした。

 

 

「死んでも尚、酒と共にありたい!」

この言葉以上に鄭泉に合ったような言葉はないかもしれませんね。