目次
劉備の入蜀への経緯
漢中の張魯に対抗すべく、
荊州の劉備を益州に招いて対抗しようと劉璋は考えます。
そして劉備が益州に入ると劉璋に対して反旗を翻し、
結果的に劉璋は降伏したことで益州を奪われてしまいます。
劉備を益州に招く際に、
劉備の入蜀に積極的に賛成した臣下と反対した臣下がいました。
今回はそれぞれの立場で主張をしていた人達を紹介してみたいと思います。
劉備の入蜀に賛成した人達
劉備を劉璋に代えて、
益州を立て直そうと考えていた人達がいました。
劉璋の立場から見てみると、
単純に不忠者だったり、裏切者ということになりますが、
劉備の立場から見ると、彼らは自分を助けてくれる恩人とも言えますし、
彼らの協力無くして益州を手に入れるということ自体厳しい状況だったのが実情です。
張松(ちょうしょう)
横山光輝三国志(33巻49p)より画像引用
劉璋は勢いのあった曹操と張魯が同盟を結ぶことを恐れて、
張松らを曹操の元に交友の使者として赴きますが、
張松の貧相な見た目もあり、曹操に軽んじられてしまいます。
劉備の元に張松が訪れた際、
大層なもてなしを受けた事から、劉備と結ぶことを劉璋に提案します。
劉備には、益州の地図を細かに説明して教えてという話も残っています。
劉備の入蜀計画は、張松の発案だったのです。
しかし入蜀計画が漏れてしまうと、張松は妻子とともに処刑されてしまいます。
ちなみに張松の入蜀計画を劉璋に密告したのは、
兄の張粛(ちょうしゅく)だったということは皮肉な話です。
法正(ほうせい)
横山光輝三国志(33巻57p)より画像引用
張松の親友であり、
劉備訪問の際は、張松と共に劉備を訪問しています。
そしてもともと
「劉璋では大事を成すことは不可能である」と思っていたこともあり、
劉備の入蜀を張松とともにサポートしています。
劉備が劉璋を降してからは、漢中攻略戦で活躍するも、
220年にあっさりとこの世を去っています。
222年に劉備が夷陵の戦いで孫権に大敗を喫した際に
諸葛亮が「あぁ、法正がもし生きてれば・・・」と言ったのは有名な話です。
北伐を成功に導けたかもしれない天才戦略家、法正(ほうせい) 〜もう少しだけ長生きしてくれればと思わずにはいられない人物〜
孟達(もうたつ)
横山光輝三国志(33巻46p)より画像引用
孟達は、法正と司隷扶風郡出身の同郷で、二人は飢饉がもとで、
郷里を離れて劉璋に仕えるという経緯がありました。
その為張松や法正の考えに従った形で、劉備入蜀をサポートします。
劉備が劉璋を降してからも上庸を落とす等の活躍をしますが、
劉封との関係が悪化したり、
関羽の事での劉備の怒りを買った事もあり、
これ以上劉備に仕える事はできないと判断した孟達は、
最終的に魏へ投降しています。
劉備の入蜀に反対した人達
張松・法正・孟達といったように、
劉璋から見たら不忠者にあたる人達もいましたが、
劉璋からしたら忠臣にあたる人達の方が圧倒的に多くいました。
全て上げたらきりがないほど様々な人物が出てくるので、
ある程度きちんと記録が残っている代表的な人物を、
自分なりに選んで今回は抜粋することにします。
王累
横山光輝三国志(33巻74p)より画像引用
211年、張魯に対抗する為に劉備を招く案が出た際、
「劉備を益州に招いたら、国を乗っ取られますよ」と強く反対しています。
しかし劉璋が王累の言葉に耳を全く聞かず、
劉備を招くための準備を整えて出迎えにいこうとしていると、
城門に自分の体を逆さ吊りにして諫めています。
それでも聞き入れられない事が分かると、
部下に城門から降ろしてもらい、そこで自害して果てています。
三国志演義でも城門の縄を自ら斬り捨て、
地面に落下して死ぬという壮絶な最後が描かれています。
劉璋からしたら忠臣中の忠臣が王累だったのです。
益州の事が書かれていた「華陽国志」では、
「忠烈公、従事王累」と王累の忠誠ぶりの記載が残されています。
劉巴(りゅうは)
劉備の入蜀を反対し、劉璋がその言葉に耳を貸さないとしるや、
病気と称して、家に引きこもるようになります。
劉備が劉璋を降してからは、
諸葛亮によって引き立てられ、政治面のことで大いに力を発揮しています。
蜀の法律である「蜀科」を作る際にも、
諸葛亮・法正・伊籍・李厳らと共に協力して作っています。
張粛(ちょうしゅく)
劉備を益州に招こうと言い出した張本人である張松の兄。
容貌が貧相であった張紹と違い、張粛は立派な容貌をしていたといいます。
張松が曹操の元に訪れて冷遇されていますが、
それより前に張粛が曹操の元へ派遣された際は、
曹操から厚遇されて、広漢太守に任命されているほどです。
しかし張松が劉備を益州に招いた本心が分かると、それを劉璋にしらせて密告しています。
その結果、張松は妻子ともども処刑されてしまいます。
張粛は張松の兄という立場ではなく、劉璋に忠誠を尽くした一人なのでした。
ただその後の張粛の記録はなく、どうなったのかは定かではありません。
張任(ちょうじん)
横山光輝三国志(35巻71p)より画像引用
張任も劉備の入蜀に反対していた一人で、
劉備との戦いが現実化すると、徹底抗戦の構えで劉璋の為に戦った人物です。
金雁橋の戦いで捕らえられると、
最後の最後まで劉備に降伏する事を潔しとせず、
「老臣は決して二君に仕えるつもりはない」と言って、劉璋への忠誠を貫いています。
最後まで劉璋の為に懸命に戦い、
捕らえられてからも劉璋に忠義を貫いた張任の死を大変悲しんだと言われています。
黄権(こうけん)
横山光輝三国志(33巻51p)より画像引用
黄権は劉備を招こうという案が出た際に、
「劉備を一武将として扱えば不満を抱くでしょうし、
賓客として劉備を迎えれば、一国に二人の君主が誕生してしまい、
国にとって良くない事が起こりますよ」と反対しています。
しかし劉璋は劉備を招く事に気持ちが傾いており、
この言葉は聞き入れられないばかりか、黄権を広漢県令として左遷して遠ざけています。
劉璋と劉備との間で戦いが起こると、
黄権は最後の最後まで劉備に抵抗して、戦い続けています。
劉璋が既に劉備に降伏した事を知ると、黄権も劉備に降伏しています。
その後の黄権は、劉備から大変厚い信頼を受けるようになり、
黄権も劉備の期待に応えて活躍していきます。
最終的には夷陵の戦い後、黄権は魏の元へ下りますが、
魏でもその能力・人柄が評価されて、昇進していきました。
厳顔(げんがん)
横山光輝三国志(34巻188p)より画像引用
厳顔は劉備が入蜀した時に、
「劉備を蜀に入れた事は猛虎を放って守ってもらってるようなものだ」
とため息をついたそうです。
ちなみにですが、劉備が入蜀する前に反対したという記録はありません。
劉璋と劉備との間で戦いが起こると、
厳顔は劉備軍の張飛と戦いますが、捕らえられてしまいます。
その時に、張飛に対して、
「お前たちは礼儀もわきまえず、我が益州に侵攻してきた!
この州には、お前たちに首をはねられる臣下はいたとしても降伏する家臣はいない、早く斬れ!!」
と堂々と言い放ちます。
これを聞いて腹を立てた張飛に対して、
「さっさと殺したらいいのに、何故腹を立てる事があるのか!!」
と続けさまに言葉を投げかけ、
張飛はここまで言われた事で、厳顔の忠誠心に頭が下がり、
厳顔に巻かれていた縄を解いて降伏するように説得したといいます。
降伏する気のなかった厳顔でしたが、
張飛の説得に応じ、その後劉備に仕える事になります。
三国志演義では、黄忠と協力して、
漢中で夏侯淵を翻弄して夏侯徳を討ち取るなどの活躍を見せたりするものの、
それはあくまで演義での話であって、正史にはそれ以降の活躍の記録はありません。
まとめ
劉備が益州に招かれた事により、
曹操・孫権・劉備の三国時代への扉を開いた事になります。
そのきっかけを作り、それが劉璋に対しての不忠であっても、
益州という大きな物差しで考えた張松・法正・孟達ら、
あくまで劉璋に忠誠を尽くして反対して国と共に滅んだ人達、
そして反対しつつも最終的に劉備に仕え、一緒に国の発展に尽くした人達、
それぞれに立場は違えど、
1人1人が益州という国を心配しての忠臣の言葉であり、
それが劉璋であるか、劉備であるかの違いだけだったのだと思います。