夷陵の戦いで、劉備が陸遜に惨敗をしてしまうわけですが、

 

その報告を受けた諸葛亮(孔明)が、

「あぁ、もし法正が生きていたならば、呉への遠征を止める事ができただろう。

もし仮に止められなかったとしても、こんな惨敗をすることもなかったのに・・・」

 

といわしめた法正について見ていきたいと思います。

法正(ほうせい)

法正は涼州扶風郡の出身で、孟達(もうたつ)と同郷でした。

 

ある時、涼州で飢饉が勃発すると、

孟達と共に益州の劉璋のもとに身を寄せたようです。

 

しかし張松が劉備を益州に招こうと画策すると、

「劉璋では、この乱世の時代に大事を成し遂げられる人物ではない」

と思っていた法正も孟達と共に張松に協力することにします。

 

そして張松と共に張魯から益州を守ってもらうという口実で、

劉備を益州に招くように劉璋に進言しています。

 

これがもとで、荊州から劉備を招く事に成功しますが、

その後劉備に通じている事がばれてしまった張松は処刑されてしまいます。

 

張松が処刑された頃、法正は孟達とともに既に劉備の陣営におり、

処刑される事はありませんでした。

 

 

214年、劉備軍が成都まで迫ると劉璋は降伏するわけですが、

 

この時劉璋に仕えていた鄭度(ていたく/ていど)は、

巴西郡・梓潼郡の住民を西に移動させ、かつ巴西郡・梓潼郡の穀物を全て焼き払った上で、

土塁を築いて、堀を掘って守りに固めれば、1万程度の兵しかいない劉備軍は撤退するしかなくなりますよ」

と劉璋に助言しています。

 

これに対して劉璋は、

「民衆をないがしろにしたそんな作戦は聞いた事がない!」といって、

鄭度の焦土作戦を却下しています。

 

 

しかし、この話を聞いた劉備は、

「焦土作戦が行われた場合、どうしたらいいものか?」

と法正に尋ねてみたそうです。

 

「劉璋はそんな作戦を実行できるような人物ではないので心配無用ですよ」

尋ねられた法正は答えます。

 

これを聞いた劉備は安心し、劉璋もまた焦土作戦を実行する事がなく、

 

劉備の使者として簡雍が劉璋の元へ訪れ、

劉璋は降伏を決意したことで劉備の勝利で幕を閉じました。

いぶし銀、簡雍(かんよう)/劉璋を降伏させた男

劉備に仕えてからの法正

劉備が益州を手中に治めた事で、

これまでの功績を含め、法正は蜀郡太守に任されるとともに、

揚武将軍にも任命されることになります。

 

そして益州を統治していくための法律である「蜀科」を制定する際には、

法正は、諸葛亮・伊籍・劉巴・李厳と共に作成しています。

蜀の法律「蜀科」を作成した一人「伊籍」

劉備に仕える事を潔しとせず、それでも最後は劉備に重用された潔白の士【劉巴】

評価が高かった割に、活躍らしい活躍がほとんど見られない李厳

 

 

劉備は法正の言葉に耳を傾けることが多く、

大変な信頼を置いていました。

 

劉備も任侠精神を持ったような人物でしたし、

法正も似たようなところがあったことも含めてかもしれませんが・・・

 

ただそんなことよりも、劉備の短所であった決断力の鈍さを

綺麗に埋めてくれたのが法正だったのでしょうね。

 

そういう意味でも二人は相性が非常に良かったのだと思います。

蒼天航路(32巻176P・177P)より画像引用

劉備へ漢中侵攻を決意させた法正

劉備が益州を平定したはいいものの、

曹操が張魯を降したことで漢中が曹操の手中に落ちてしまいます。

 

その後曹操は勢いのまま益州への侵攻をしなかったものの、

劉備は曹操がいつ攻めてくるか気にしていたようです。

 

 

そんな時に法正が、

「漢中は益州の玄関口であり、

漢中を手に入れる事は益州を守る上で非常に大事ですよ。

 

曹操が勢いにまかせて益州に攻めてこなかったのは内に別の問題を抱えていたからで、

現在漢中を任されている夏侯淵と張郃ならば十分勝機があります。

 

また漢中を手中に治め、内政に力をつぎ込めば、大きな利益を国にもたらしてくれるでしょう。

 

 

そして漢中を足場にして魏に攻め入る事も可能ですし、

最悪の場合でも漢中の要害を持って国を敵から守る事も可能です。

 

これだけ良い条件が揃っている今、漢中を攻めない手はないでしょう。」

と劉備にこちらから漢中へ攻め込むように進言しています。

漢中攻略戦(定軍山の戦い)

蒼天航路(32巻142P)より画像引用

 

これがきっかけとなり、劉備は漢中侵攻を開始しました。

 

この時劉備に法正も付き従っており、様々な作戦を立てます。

最終的におびき出される形になった夏侯淵は黄忠によって討ち取られてしまいました。

 

夏侯淵の援軍として向かっていた曹操は、

援軍が到着する前に夏侯淵が討ち取られてしまった事を嘆いたそうです。

圧倒的機動力を武器とした将軍、夏侯淵

 

 

その後曹操が漢中へ到着すると、劉備軍と対峙しますが、

 

定軍山などの要所を抑えていた劉備は法正の作戦から強固に守っており、

曹操は次第に劣勢を強いられ、漢中から全面撤退することになります。

蒼天航路(34巻40P)より画像引用

 

この時生まれた「鶏肋(けいろく)」という言葉は有名ですね。

誤った才能の使い方をしたが為に死を招いた楊修(楊脩/ようしゅう) 〜「鶏肋」「才は才に滅ぶ」~

 

 

またこの後、劉備は漢中王を名乗る際に、

呉懿の妹であった呉氏を妻にしているのですが、

 

この時結婚する事に乗り気でなかった劉備を説得したのも法正でした。

劉備の元に嫁いだ未亡人、呉氏(穆皇后/ぼくこうごう)〜劉備最後の妻〜

 

劉備が漢中奪取に成功し、漢中王を名乗った翌年にあたる220年、

法正はこの世をさっています。

 

劉備は法正の死を非常に嘆き、何日間も悲しみ続けたそうです。

そして劉備は、法正に「翼侯」という諡(贈り名)を与えています。

 

劉備自ら諡を贈った人物は、法正以外に一人もいません。

自らの命を懸ける事で劉備を悟らせた法正

 

曹操との戦いで、弓矢が劉備のもとまで飛び交うほどに、

劉備軍が押し込まれていた時がありました。

 

この時劉備の身が危険な状況で、

一時撤退して軍を立て直す事が最善であったにもかかわらず、

劉備は気が立っていて周りの者の言葉に耳を傾ける事がありませんでした。

 

 

そんな時に劉備の前に法正が立ちはだかり、

劉備に矢が飛んできた時の身代わりになろうとします。

 

これを見た劉備は、

「馬鹿者、そんなところにいたら危ないじゃないか!」

と法正にどなりつけます。

 

 

そうすると、

「劉備様でさえ危険に晒されてる状態なんですよ。

ましてや私ごときが身を晒すことなど当たり前でしょう」

 

これを聞いた劉備は我にかえり、

「一緒に一旦退却しよう」と法正に言って退却した事があったようです。

許靖についての逸話

 

劉備が益州を手中に治め、法正が蜀郡太守に任命された時の話ですが、

許靖は劉璋が負けそうになった時に成都から逃げ出そうとしたことがあり、

劉備からも嫌悪感を示されていました。

 

ちなみに許靖は劉璋の元で蜀郡太守に任命されていましたし、

法正が劉備に従って漢中へ行った時は、楊洪という者が蜀郡太守を任せられています。

公明正大で、人を見る目に非常に長けていた楊洪

 

この時法正が、「許靖の名は天下に知れ渡っており、

劉備様が許靖を用いないのであれば、劉備様が賢人を軽んじられているとみられることになります。

 

だから許靖が表面上の名声しかない人物だとしても、許靖を用いるべきです」

と劉備に説いています。

 

それを聞いた劉備は、許靖を左将軍長史に任命して取り立て、

劉備が皇帝を名乗った時には、三公である司徒にまで昇りつめています。

法正が蜀郡太守に任命された時の逸話

 

法正はもともと性格に難があった人物で、

小さな恨みにも遠慮なしに報復する事が多々あったようです。

 

実際、蜀郡太守に任命された時も法正に対して批判する者達がいました。

 

その際に法正は自分を批判した者を、

そしてこれまで恨みを持っていた者を容赦なく斬り捨てます。

 

 

このことを聞いた諸葛亮は、

「今の劉備様がいるのは、法正殿のお陰でしかない。

 

その功績は非常に大きなもので、

そういうことがあったからと法正殿を処罰することはできない」

と法正の罪に対して普通に目をつぶったそうです。

 

諸葛亮ほどの人物でも法正の罪を問えなかったほどに、

劉備にとっても蜀にとっても欠かせない人物と判断していたのでしょう。

曹操の評価

曹操が、夏侯淵が討ち取られてしまったのは、

法正の作戦だったと後になって知った時のことです。

 

「劉備にこのような作戦は思いつくはずがない。

誰か劉備に知恵を授けたに違いないと思っていたよ。

 

ただ私は多くの優秀な者達をこれまで手に入れてきたが、

法正を手に入れる事ができていなかったようだ」と法正の事を絶賛しています。

陳寿の評価

「法正は徳に欠ける所が大いにあったが、

判断力に非常に優れており、誰もが考えれないような計略を立てる事ができた人物だった。

 

曹操の臣下にもし例えたなら、郭嘉・程昱と並ぶほどだと思う」

と法正の事を非常に高く評価しています。