馬忠、劉備と出会う

馬忠はもともとは「狐篤」という姓名であったが、

改名して馬忠に変わってます。

 

そんな馬忠ですが、劉備が夷陵の戦いで敗北すると、

5000人を連れて劉備の援軍へかけつけています。

 

そして、ここで馬忠と劉備は、初めて出会うわけなんですが、

「夷陵の戦いで黄権を失ってしまったが、代わりに馬忠を手に入れた。

まだまだ知らない人材が隠れているもんだなぁ」と馬忠のことを称賛しています。

 

 

黄権といえば、劉備が大変信頼した人物で、

夷陵の戦いで退路を断たれ、仕方なく魏に降伏した人物でした。

 

その黄権の代わりというのだから、

どれほど馬忠への評価が高かったかが伺えますね。

実際、度量があり、決断力に優れた人物で、文武に明るい人物でした。

筋の通った生き方を貫き、劉備・曹丕から大きな信頼を受けた黄権

武人としての馬忠

劉備死後、蜀の南方で反乱が多発すると、

馬忠を牂牁(そうか)太守に任命され、朱褒の反乱を鎮圧し、

南方平定に尽力しています。

孔明と孟獲(南蛮討伐/七縦七擒)

 

 

その後の馬忠は、諸葛亮の北伐に従軍したり、

汶山郡(びんぶんぐん)の羌族の波乱を鎮圧したり、

劉胄(りゅうちゅう)の反乱を平定したりと大活躍を見せます。

 

そして蜀の支配が行き届いておらず、

失地となっていた越巂郡(えつすいぐん)の回復にも成功しています。

 

 

異民族に徳をもって接していた為、馬忠が死んだ後、

異民族らはその死を大変悲しんで、廟まで立てて祭ったそうです。

南の馬忠

 

馬忠は生涯を通じて、

南方の異民族の対応にあたっていた為、

 

漢中を守る王平を「北の王平」、江州を守る鄧芝を「東の鄧芝」と並んで、

「南の馬忠」と言われたそうです。

 

 

王平・鄧芝・馬忠三人に関していえることは、

失敗をせず、無難に仕事をこなしてくれるイメージの三人なんですよね。

 

なんでも無難にこなせる彼ら以外に

国境を安心して任せられる人選はありえなかったのでしょう。

三国志演義での馬忠の功績

三国志演義での異民族への対応は、

諸葛亮のイメージが強いかもしれませんが、

 

実際は、馬忠の功績の多くが、

諸葛亮に組み込まれてしまってる感じなんですよね。

 

馬忠の功績は、諸葛亮にやっちゃえみたいな感じで、

「諸葛亮すごいなぁ」となってるのが三国志演義なんです。

文人としての馬忠

馬忠は蒋琬の次官(副長吏)になって、

蒋琬が留守にしていた間、代わりに蒋琬の仕事を任されたことがありました。

 

時には、益州の治中従事を任されたりもしてます。

 

ちなみに治中従事とは、

益州の文書を管理し、事務を統括したりする仕事です。

 

 

また魏が攻めてきた際に費禕が防衛に向かった時には、

馬忠が平尚書事になって、費禕の代わりに成都で仕事をこなしています。

 

蒋琬や費禕といえば、諸葛亮が跡を託したほどの人物で、

その二人の代わりに仕事をこなしたこと自体、馬忠の非凡さを証明する分かりやすい例ですね。

三国志演義での馬忠

 

諸葛亮の南蛮討伐の際に、馬忠は登場していますが、

孟獲の妻である祝融夫人に一騎打ちを申し込んで捕らえられます。

 

正史では馬忠と共に張嶷(ちょうぎょく)も

南蛮討伐で活躍しているんだけど、

 

その張嶷も馬忠と仲良く、

祝融夫人に一騎打ちを申し込んで捕らえられるというおまけつき。

 

蜀軍が祝融夫人を捕らえることに成功すると、

馬忠・張嶷と交換されています。