裴潜(はいせん)

裴潜は河東郡聞喜県の名家の出身でしたが、

戦乱の火の手が広がってくると、劉表が治めていた荊州に避難します。

 

荊州という地は、劉表が中立の立場で戦を避けていた事もあり、

当時平和な所だったので多くの知識人達が荊州へ避難していました。

 

裴潜もその中の一人だったわけです。

 

 

この時、裴潜同様に曹操に仕える事になる王粲・司馬芝も荊州に避難してきており、

彼らと親交を結んでいました。

人並外れた記憶力の持ち主「王粲」

 

また劉備も袁紹の元から荊州に落ち延びてきており、

新野の太守に任命されていたんですが、その劉備とも裴潜は交流を持っていたようです。

 

劉表は、王粲・司馬芝・裴潜をはじめ多くの者を招いたようですが、

裴潜は劉表が抱いていた野望が劉表自身の力量をはるかに超えるようなものであることを見抜き、

劉表に仕官せずに更に南方の長沙まで放浪。

 

その後まもなくして劉表は病死し、劉琮が跡を継ぎますが、

曹操の侵攻の前に戦わずして降伏しています。

実は曹操と戦う気でいた劉琮

 

新野を守っていた劉備はというと、

曹操に追われる形で夏口へ落ち延びていきました。

 

この時、劉備の幼馴染みでもあった呉巨を頼ろうとしたそうですが、

魯粛の言葉によって頼ることはせず、その後呉の孫権と同盟を結ぶことになります。

交州の権力争いで散った劉備の幼馴染み「呉巨」

曹操に取り立てられた裴潜

曹操が荊州を手中に収めると、

荊州南部の長沙にいた裴潜は曹操に取り立てられることになります。

 

ある時に曹操から劉備について問われると、

「中原に劉備がいても乱すだけで収める事はできない。

しかしチャンスを活かして要害の地を守れれば、一地方の群雄になることができる人物ですね」

と答えたそうです。

 

 

中原で劉備が領地を維持ができないのは、

これまでの経過から分かっている事ではありますが、

 

劉備が要害の地を手に入ることができれば、

その領地を維持できる群雄になることができると推測した裴潜の推察力には、

さすがだと言わざるを得ませんね。

 

後に劉備は益州の劉璋を襲って益州を手に入れていて、

最終的に皇帝まで昇り詰めているわけですから。

鳥丸族を見事に従わせた推察力と手腕

215年になると、鳥丸族が代郡で暴れだしました。

 

鳥丸族の王(単于)以外にも勝手に単于を二人が名乗った事で、

代郡の太守でさえもそれを抑える事が出来ない状態になってしまいます。

 

そこで代郡太守に任命されたのが裴潜でした。

 

 

この頃曹操は漢中の張魯討伐に専念していたこともあり、

鳥丸族の仕打ちを放置しているというのが現状でした。

 

しかし漢中の張魯を降したことで、裴潜に鳥丸族討伐に乗り出すように命令しますが、

ここで裴潜が曹操に対して次のように述べます。

 

「代郡には1万人以上の兵士が常に配置されており、

鳥丸族の単于らは自分たちが何をしてるかを知っており、

直接的に我々に危害という危害を与えていませんが、内心不安に思っていると思われます。

 

今大軍を率いて鳥丸族討伐に動けば、彼らは激しく抵抗するでしょう。

それよりも私が言って話し合えば簡単に解決しますよ。」

 

 

裴潜が曹操にそのように言うと、

裴潜は供を連れて鳥丸族の単于らのもとへ出かけていきました。

 

潜らに説得された鳥丸族単于らは、

土下座してこれまでの犯した罪を謝ってきたそうです。

 

そしてこれまで奪ってきたものを全て返還。

これによって裴潜は一兵も失わずに鳥丸族を従えたわけですね。

 

裴潜は3年間、代郡の太守を見事につとめ、

鳥丸族ら異民族に対しても厳しい態度でのぞみ、民衆には慈悲の心で接していました。

裴潜を中央に戻したことを後悔した曹操

代郡での裴潜の統治ぶりが曹操によって大きく認められ、

中央に呼び戻されて、丞相理曹属に任命されます。

 

呼び戻された裴潜は曹操に次のように言ったそうです。

「私は民衆に慈悲の心で接し、異民族に対して厳しく対応してきました。

 

私の後任を任された者は、

私がやってきた異民族に対する態度を厳しすぎると判断し、

寛大な心で接して恩恵を施す可能性があります。

 

そうすると異民族らは付け上がり、再度反乱を起こすでしょう」

 

 

それから少しして、

裴潜が言ったように鳥丸族が反乱を起こしたわけです。

これに鮮卑族の軻比能かひのうらまで加わり、大規模なものになってしまいます。

 

曹操は裴潜が危惧したことが見事にあたってしまい、

裴潜を中央に戻すのが早すぎたことを後悔したそうです。

 

ちなみにこの鳥丸族・鮮卑族の反乱は、曹彰が見事に撃退しています。

武勇に優れ、名将たる素質を兼ね備えていた曹彰

その後の裴潜

その後の裴潜は曹操によって兗州刺史に任命され、

荊州で関羽によって苦戦を強いられていた徐晃に援軍を送ったりします。

 

曹操が死んで曹丕が後を継ぐと、

裴潜は中央に再度呼び戻され、散騎常侍に任じられました。

 

その後、魏郡・潁川郡の典農中郎将を任された時に、

郡の太守と同様に、典農中郎将にも人材推挙を行う権限が与えられるように働きかけ、

これが認められています。

 

 

また曹丕の時代に、関内侯の爵位も獲得しました。

 

次の曹叡の時代には、太尉軍師・大司農まで昇級し、

清陽亭侯の爵位も頂いています。

 

裴潜はどんな身分になっても、

常に質素倹約な生活に努め、妻子にもそれを徹底させていました。

 

そんな裴潜ですが、244年に亡くなっています。

 

ちなみにですけど、

三国志に注釈を加えた裴松之は、裴潜の子孫になりますね。