黄元の反乱
黄元は劉備に仕えていた人物ですが、
出生や経歴などについてはよくわかっていない人物になります。
ちなみに黄元の名前が登場するのは漢嘉太守であった頃であり、
劉備が夷陵の戦いで大敗を喫した後になります。
正確には曹仁が濡須の戦い(三方面の戦い)にて、
朱桓に敗れた章武三年(223年)の三月の話になりますね。
そもそも漢嘉郡は夷陵の戦いの前年である221年に、
蜀郡属国から漢嘉郡に改められた場所になりますので、
おそらく黄元が初代の漢嘉太守に任じられた人物だったのでしょうね。
ちなみに「○○属国」と呼ばれる地名が出てきたりしますが、
簡単にまとめてしまえば、○○郡と同等と考えてもらってよいです。
ただ郡には「太守」が置かれるのに対して、
属国には「都尉(属国都尉)」が治めるという違いはあります。
また章武三年(223年)の三月頃の劉備は、劉備は白帝城にて養生を行っていました。
しかし劉備の病状が悪化すると、諸葛亮や李厳らを白帝城へと呼び寄せます。
これにより諸葛亮は成都を離れ、劉備の見舞いとして白帝城を訪れたわけですが、
そんな黄元でしたが、諸葛亮とは関係が良くなかったようです。
これ不安に駆られて反乱を起こしたのが黄元になります。
そして黄元は臨邛城を焼き払い、劉禅がいる成都に向けて兵を進めたのでした。
見事な対応をした楊洪
黄元の反乱に対して、
劉禅はどう対応したらよいか分からずに狼狽えます。
この時に対応にあたったのが、益州治中従事の楊洪でした。
楊洪は諸葛亮や李厳からも高い評価を受けた人物であり、
非凡の才能の持ち主だったのは間違いありません。
楊洪が黄元が反乱したことを知ると、急ぎ劉禅の元へと駆け付け
陳曶・鄭綽に黄元討伐を命じたのでした。
その際に多くの者達は、
「もし黄元が成都の包囲に失敗したならば、
越雟を経由して南中を本拠地とするだろう。」
と心配したといいます。
それに対して楊洪は冷静に次のように言葉を返しています。
「黄元は乱暴者で、民衆に対して恩恵を施してはいませんでした。
だからこそ大きなことはできないと思われます。
残された選択肢は川を下って東方へと逃げる道だけであり、
もし劉備様が元気であるならば、 自らを縄で縛りあげて命乞いをするしか道しか残されていません。
ましてや劉備様に異変があるようなら、呉に降るしかありません。
だからこそ陳曶・鄭綽の二人に南安峡の出入り口を塞がせておけば、 黄元を簡単に生け捕る事が可能でしょう。」 |
黄元の末路
楊洪の見事な対応のお陰で、黄元は成都包囲に失敗します。
そして楊洪が言っていたように川の流れを利用して、
南安峡から東方へ逃げようと試みたわけです。
しかし既に陳曶・鄭綽が南安峡の出入り口を封鎖していたことで、
黄元はあっさりと捕縛されてしまったのでした。
そして成都へ連れてこられた黄元は斬り捨てられ、反乱は鎮圧されたのでした。
黄元討伐に対して見事な対応をした楊洪でしたが、
その後もこれまでとなんら変わらず、諸葛亮から高く信頼され、
相談を受けることも度々あったといいます。