楊洪(-季休-ようこう)

楊洪益州犍為郡の出身で、

若い時は学問が非常に大嫌いな人物だったといいます。

 

また公明正大なだけでなく、忠義にも厚い人物でもあり、

人物の鑑識眼にも長けていました。

 

 

いかなる状況下でも冷静な分析ができ、的確な助言ができたことから

諸葛亮も度々相談をしていたほどでした。

 

後に失脚してしまいますが、ナンバー2の立ち位置にいた李厳からも、

絶大な信頼を受けていたことでも知られていますね。

 

 

また劉備が漢中で戦いを繰り広げていた頃、苦戦を強いられていました。

 

そんな折に劉備から次のような文書が送られてきます。

急いで兵を徴用せよ!」と・・・

 

 

おそらく劉備は武都(下弁)の戦いで、

曹洪・曹休・曹真らによって雷銅・呉蘭が破られていたり、

 

陳式が徐晃によって打ち破られたりしていた辺りに文書を出したのでしょうね。

 

 

 

 

劉備からの文書を見た諸葛亮は、

住民に負担を強いて徴用するか非常に悩んでしまい、

 

劉備からの手紙の内容を楊洪に相談したことがありました。

 

 

相談された楊洪は、

「漢中は益州の喉元にあたり、

存亡をかけた要所にあたります。

 

漢中を失えば蜀は存続することは不可能であり、

家門の禍となるでしょう。

 

 

そういった背景があればこそ、

 

男子は戦場へと向かい、

女子は輸送にあたるべき時なのです。

 

なにゆえ兵の挑発にためらう必要があるでしょうか!」

と返答し、諸葛亮は楊洪の言葉に深く納得したといいます。

 

 

 

そもそも黄権は漢中の重要性は誰よりも先に説いていたと思いますし、

定軍山の戦いで活躍した法正も同様でした。

 

 

だからこそ彼らと同じ考えであった楊洪を、

諸葛亮は蜀郡太守であった法正の代行として上奏し、

 

その後も全ての業務を徹底的にこなしたことから、正式な蜀郡太守に任じらています。

 

 

そして楊洪の功績は大きく認められ、

蜀郡太守から益州の治中従事に任じられる事となりました。

 

 

「益州の治中従事」を分かりやすくいえば、

劉備の補佐役と言ってもよい程の立ち位置にあたる役職です。

 

形式上は「益州刺史の補佐役」になりますからね。

北伐を成功に導けたかもしれない天才戦略家、法正(ほうせい) 〜もう少しだけ長生きしてくれればと思わずにはいられない人物〜

黄元の反乱への対応

夷陵の戦いで劉備が陸遜に大敗すると、

劉備はなんとか白帝城へと逃げ延びることに成功するものの、

 

敗戦のショックから病気にかかってしまい、

次第に体は蝕まれていく事となります。

 

 

死期を悟った劉備は諸葛亮を白帝城へと呼び寄せるわけですが、

諸葛亮が成都を離れた際に反乱が勃発します。

 

成都があった蜀郡の隣の漢嘉郡の太守を任されていた黄元が、

反乱を起こして成都へと迫ったのでした。

 

 

黄元と諸葛亮は仲が良くなかったという話もあり、

 

諸葛亮が劉備に後を託された際に、

自身の将来に不安を感じた上での反乱だったと言われています。

 

 

この際に多くの者達は、

「黄元が成都の包囲に失敗したならば、

越雟を経由して南中を本拠地とするだろう。」

と考えたといいます。

 

 

しかし楊洪は、陳曶ちんこつ鄭綽ていしゃくに討伐を命じ、次のように言っています。

 

「黄元は乱暴者で、

民衆に対して恩恵を施してはいませんでした。

 

だからこそ大きなことはできないはずです。

 

 

また残された選択肢は川を下って東方へと逃げる道だけであり、

 

もし劉備様が元気であるならば、

自らを縄で縛りあげて命乞いをするしか道しか残されていません。

 

ましてや劉備様に異変があるようなら、

呉に降るしかありません。

 

 

だからこそ陳曶・鄭綽の二人に南安峡の出入り口を塞がせておけば、

黄元を簡単に生け捕る事が可能でしょう。」

 

 

 

その後に黄元は成都包囲に失敗し、

楊洪が言っていたように川の流れを利用して、南安峡から東方へ逃げようと試みたわけです。

 

 

しかし陳曶・鄭綽が南安峡の出入り口を既に封鎖していたことで、

黄元はあっさりと捕縛されてしまったのでした。

 

そして成都へ連れてこられた黄元は斬り捨てられ、反乱は鎮圧されたのでした。

諸葛亮の留守(劉備の見舞い/白帝城)を狙って反乱を起こした黄元&反乱を見事に防いだ楊洪の話

何祗の才能を見抜いた楊洪

何祗かしは貧しい生活を送っていたにも関わらず、

歌や女を好み、節約・倹約することもない人物だったといいます。

 

しかし楊洪はそんな何祗の才能を見抜いて抜擢します。

 

楊洪が蜀郡太守だった頃の話ですね。

 

 

ただ楊洪が漢中攻略戦の時の蜀郡太守の時であったのか、

223年に再び蜀郡太守に任じられた時かどうかが、

 

残されている資料からははっきりと分からないのが実情ではありますが、

普通に考えると223年以降の話かなと思っています。

 

 

 

そんな楊洪と何祗について次のような笑い話が残っていたりします。

裴松之が注釈を加えている「益部耆旧伝雑記」が引用元ですね。

 

ある朝会で楊洪が何祗に対して、

「貴方の馬はどうしたら走るのですか?」

と「貴方の馬」と言いながらも何祗を馬に例えたわけです。

 

これを聞いた何祗は、

「馬が走ろうとしないのは、

貴方が鞭を打たないからですよ。」と返したわけです。

 

この場にいた者達は笑い話としたというものです。

 

 

何祗は適当な所はあったものの、

「ここぞ!」という時の対応能力は非常に高いものでした。

 

 

何祗のそういう高い才能を評価されて、

汶山ぶんざん太守を経て、広漢太守まであっさりと出世しています。

 

短い間であっさりと楊洪と同じ太守の立場まで出世したことで、

「人々は楊洪の鑑識眼の高さを称えた」といいます。

 

 

 

汶山ぶんざん郡に住む異民族からは大変に慕われ、

広漢太守への転任する際に、

 

「再び汶山ぶんざん太守に何祗殿を任命してくれ!」

と反乱まで起こしたという逸話すら残っています。

 

結局何祗を再び汶山ぶんざん太守に任じるのは無理があったことから、

「何祗の一族を太守につける」という事で反乱は静まったといいます。

 

 

楊洪によって才能を見出された何祗でしたが、

何祗もまた楊洪の期待に応えれるだけの才能の持ち主だったということでしょう。

諸葛亮からの相談(張裔について)

227年、諸葛亮から楊洪に対して、

「近いうちに張裔を長史に任命しようと思っていますが、

楊洪殿はこの件についてどう思われますか?」

と尋ねた事がありました。

 

 

楊洪は張裔と友人関係であり、張裔についてよく理解していました。

 

そして諸葛亮の問いに対して楊洪は、

「張裔殿は判断力に優れ、激務にも耐えられる人物ですし、

優れた才能の持ち主でもありますので、

 

留府長史に任命するのは問題ないと思われます。」

と張裔の才能をしっかり認めつつ、次のように言葉を続けます。

 

 

「ただ張裔殿には問題もあり、公平性に欠ける所がありますので、

張裔殿一人に任せるのは宜しくないでしょう。

 

 

そこで向朗殿は裏表のない人物ですので、

 

向朗殿の下に随従させ、

張裔殿の才能を発揮させれば一挙両全かと思います」

と国の事を第一に考えた発言をした逸話が残っています。

最初から最後まで公平性を貫いた楊洪

若かりし頃に友人の関係であった楊洪と張裔でしたが、

二人の関係が冷めてしまっている事は既に知られている事実でした。

 

 

どういう事かというと、劉備が亡くなった直後に

雍闓を首謀者とする大規模な南方反乱が起こったのですが、

 

この時に張裔は雍闓に捕縛され、

呉と通じていた雍闓は張裔を孫権のもとへと送ったわけです。

 

 

この際に蜀郡太守であった楊洪の元で、張裔の息子であったちょういくが官吏として働いていました。

 

しかしそんな郁が些細なことで罪に問われてしまったのです。

 

 

これに対して友人の息子であるという私的な感情で、

郁の罪を減刑してあげることも実質可能な立場でもありました。

 

しかし楊洪はそういうことはせずに、公平にを刑に処したわけです。

 

 

それから少しして蜀への帰還が許されることとなった張裔は、

「息子の件を聞いて恨みを抱いた」といいます。

 

 

そのことがあってからというもの、二人の関係は冷え切っていたのです。

 

「一方的な張裔の気持ちから冷え切った関係になった」

という方が正しいですが・・・

 

 

 

そんな中で楊洪が、

張裔を留府長史に任じることに反対したことで、

 

「自らが留府長史になりたかったからだ」とか、

「張裔が出世する事を嫌がっているからだ」との噂も経っていたようです。

 

 

また諸葛亮自身も楊洪の意見に従わず、

後に張裔を留府長史に任じ、向朗を北伐へ随行させています。

 

 

そして後に司塩校尉の岑述しんじゅつと張裔の関係が悪化するわけですが、

 

しかしこれは明らかに、

張裔の私的な感情を公務に持ち込んでいたわけです。

 

一言で言ってしまうと、

完全に公私混同していたということです。

 

 

諸葛亮は張裔に対して、

「どうしてこの程度のことがが耐えられないのか!?」

と張裔に責したといいます。

 

 

 

ちなみに諸葛亮は北伐の際の「出師表」でも、

 

郭攸之・費禕・陳震・蔣琬同様に

「貞良死節の臣」として名前を挙げた人物でもあります。

 

 

しかし楊洪が言っていた通りの人物だったというわけです。

 

 

ただ諸葛亮の北伐の最中なのか、街亭の戦いで敗北してからなのかは不明ですが、

228年に楊洪はこの世を去っています。

 

楊洪が蜀にとって必要不可欠な人物の一人であったことは間違いないでしょうね。