楊洪(ようこう)

楊洪は、益州犍為郡出身で、

若い時は学問が非常に大嫌いな人物でした。

 

ただ非常に公明正大で、忠義心も厚く、

公の仕事を任られた時は、

自分の家のやりくりを心配するのと同じように一生懸命励んだそうです。

 

そして楊洪は、人を見る目に長けていました。

一人一人を正確に分析でき、的確な助言を行えたため、

諸葛亮からたびたび相談を受けるほどでした。

 

後に失脚してしまいますが、

当時のナンバー2であった李厳からも絶大な信頼を受けています。

諸葛亮からの相談(漢中争奪戦)

劉備が漢中に侵攻した時のこと、

劉備から「急いで兵を徴用せよ」と命令が下ります。

 

この時諸葛亮(孔明)は、人民に負担を強いて徴用するか悩み、

これを楊洪に相談します。

 

相談された楊洪は、

「漢中は益州の急所にあたる部分であり、漢中を失う事は益州を失うことになる」

と助言し、孔明はこれに納得して楊洪の言葉を聞き入れています。

 

確か法正も同じことを劉備に言っていた気がしますけど・・・

 

だからこそ、漢中に従軍していた法正の代わりに、

蜀郡太守を任されたのかもしれませんね。

北伐を成功に導けたかもしれない天才戦略家、法正(ほうせい) 〜もう少しだけ長生きしてくれればと思わずにはいられない男〜

諸葛亮からの相談(張裔について)

227年、孔明から楊洪に対して、

「近々張裔を長史に任命しようと思ってるがどう思うか?」

と聞かれた時の事です。

 

楊洪は張裔とかつての友人関係であったこともあり、

張裔のことをよく理解していました。

 

なので「張裔は非常に優れた才能を持っているので長史にするのは問題ない」

と張裔の才能をきちんと認めてます。

 

しかし、「張裔は性格上問題あるから、向朗殿の下につけて働かせた方が、

結果的に張裔の力を引き出せると思いますよ」と友人という垣根を超えて、

国の為に冷静に張裔について助言しています。

友人である馬謖を庇って罪に問われた学問の師、向朗

 

ただこの時、向朗が馬謖の件で失脚してしまったため、

普通に張裔に長史を任せる事になります。

 

後に岑述(しんじゅつ)を孔明が用いた時に、

岑述と仲が悪かった張裔が、へそを曲げる事があったのです。

 

それを見て、「どうしてこんなこと程度が耐えられないのか?」

と張裔に対して孔明は失望してしまいます。

 

まさに楊洪が言った通りに性格に難があったのです。

黄元の反乱への対応

 

劉備が関羽の仇を討つために出陣した夷陵の戦いは、

呉の陸遜の罠にかかり敗北してしまいます。

 

その後劉備の体調は悪化していき、

孔明は見舞いもかねて、劉備のもとを訪れます。

 

この時漢嘉太守であった黄元が、

前に孔明から左遷させられたことを恨んでおり、

反乱を起こして、手薄の成都へ侵攻を開始します。

 

 

劉禅の取り巻きらは、

「もし黄元の反乱が失敗に終われば、

黄元は南に逃げ、そこを拠点にするんじゃないのか?」と問いかけます。

 

しかし楊洪は、「黄元はこれまで周りに徳を施していない。

黄元が選べる選択肢は川を利用して東へ逃げるぐらいしかできない。

 

だから南安峡の出入り口を陳曶(ちんこつ)・鄭綽(ていしゃく)の二人に塞がせれば、

たちまち捕らえる事ができるはずです」と返します。

 

結果楊洪の言った通りになり、黄元は捕獲され、

成都で処刑されています。

諸葛亮の留守(劉備の見舞い/白帝城)を狙って反乱を起こした黄元&反乱を見事に防いだ楊洪の話

友人張裔

楊洪と張裔は友人関係でした。

ある時些細な事で張裔の子供であった張郁(ちょういく)が、

些細な罪を犯して捕らえれる事があったんですけど、

 

この時友人である張裔よりも、

国の法律をきちんと優先してさばいています。

これにより張裔との友情に、ひびが入ってしまったといいます。

 

しかし個人の友情より国の事を考えて対応する楊洪は、

真の忠臣であったというエピソードの一つかなと思います。

何祗の才能を見抜く

何祗(かし)という人物がいましたが、

楊洪は、何祗の才能を見抜き取り立てています。

 

そうすると能力が高すぎたせいか、

適当な所はあったものの、なんでも簡単にこなしてしまったため、

汶山(ぶんざん)太守・広漢太守まであっさりと出世しています。

 

何祗も楊洪によって才能を見出された一人なのでした。

また何祗も楊洪の期待に応えれるだけの才能の持ち主だったのです。