呂蒙(りょもう)

蒼天航路(36巻32P)より画像引用

 

呂蒙は豫洲汝南郡の出身で、貧しい家の生まれでした。

 

若かりし頃の呂蒙は、武力一辺倒の人物で、

呂蒙の姉の夫である鄧当(ていとう)の元に身を寄せてます。

 

 

鄧当は孫策に仕えており、

呂蒙が身を寄せた頃、山越の反乱鎮圧を任されていました。

 

山越討伐に向かった際、

連れてきたつもりがなかった呂蒙がこっそり兵士の中に紛れ込んでおり、

 

「母親が心配するから帰れ!」と言われるも、

呂蒙は鄧当の言葉を無視し、帰ることはありませんでした。

 

討伐が一段落し、帰宅した呂蒙は、母親からこっぴどく叱られます。

 

呂蒙は自分を叱る母親に対して、

「僕はいつまでも貧乏でいたくない。

 

もし手柄の一つでも上げる事ができれば、

貧乏な生活から脱出できるかもしれないじゃないですか!!」と言い返します。

 

 

これを聞いた母親は、呂蒙の考えを尊重し、

呂蒙を一人の男として見守る事にしたのでした。

 

この時の呂蒙は、15歳~16歳だったというから驚きです。

それ以後、呂蒙は鄧当軍の一員となります。

孫策から直々に誘われる

ある時、ある役人が呂蒙を馬鹿にしたことがありましが。

呂蒙はこの役人に苛立ち、斬り殺してしまいます。

 

この出来事は孫策の耳に入る事になります。

そして孫策は呂蒙を呼び出します。

 

呂蒙を見た孫策は、呂蒙に何か感じるものがあり、

「俺に仕えぬか!?」と呂蒙を誘います。

 

孫策の誘いに応じた呂蒙は、孫策の傍で活躍していくのでした。

 

 

それからしばらくして鄧当が死ぬと、

鄧当の役目を引き継ぎ、別部司馬に任じられます。

 

これは、呂蒙の将来性を見込んだ大抜擢でした。

 

 

孫策死後は、そのまま孫権に仕え、

呂蒙は呉にはなくてはならない人物に成長していきます。

呉下の阿蒙に非ず

呂蒙は武力一辺倒の男でしたが、

呉には呂蒙と似たように武力一辺倒だった蒋欽(しょうきん)がいました。

呂蒙に負けず劣らず努力した蒋欽

 

ある時、孫権はこの二人を呼び出し、

「武力に秀でている事は悪い事じゃないけど、学問を身につけておくことも大事だよ」

と二人にアドバイスした事がありました。

 

孫権からこのように言われた呂蒙は、勉学に励むようになります。

 

学問を学んでいると、これまで味わった事のない楽しさを呂蒙は覚え、

多くの知識を吸収していったそうです。

蒼天航路(26巻75P)より画像引用

 

 

勉学に励んでいた事を聞いていた魯粛は、

任務に向かう合間に、呂蒙の家を訪ねた事がありました。

 

魯粛は、呂蒙に様々な質問をしますが、

呂蒙はそれに対して全て適切な答えを返しちゃいます。

 

そして魯粛はおそろしいほどに成長していた呂蒙に対して驚くと同時に

「もう呉にいた時のアホの蒙ちゃんじゃないんだね!」と思った事を口に出します。

 

 

これに対して呂蒙は、

「日々切磋琢磨に自分を磨いている者と三日会わなければ、

見違えるほど成長してるものですよ」と魯粛に言葉を返しています。

 

これまで呂蒙の事を馬鹿にしていた魯粛ですが、

この出来事があってからは親友として付き合っていく仲になります。

 

「呉下の阿蒙に非ず」「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」

という有名な言葉は、こうして誕生したわけです。

魯家の狂児「魯粛」

関羽を破り、荊州奪還に成功する

 

魯粛がこの世を去ると、呂蒙は魯粛の後任を任されます。

 

荊州という土地は、劉備にとっても孫権にとっても非常に大事な土地で、

二人の間でこれまで揉めまくっていました。

 

しかし、呂蒙は国力を今以上に高める為にも、

荊州を支配下に置くのは必須だと考え、その機会を伺います。

 

そんな折に、関羽が魏の樊城へ攻め込んだと聞くと、

呂蒙はとうとう動きます。

 

その際、自分が前線に居座ったのでは関羽が警戒すると思い、

呂蒙は病気のふりをして建業に戻ります。

そして、当時無名だった陸遜に自分の代わりをするように命じます。

 

陸遜は無名でしたが、

呂蒙は陸遜の才能が豊かである事を知っていました。

そして無名だからこそ、関羽は必ず油断するはずだと考えます。

 

この作戦は見事に成功し、関羽は捕らえられ処刑されてしまいます。

これによって荊州は呉の支配地になりました。

その後の呂蒙

関羽討伐を果たし、無事に荊州を奪った呂蒙でしたが、

その後間も無く、病気にかかってしまい、この世を去ってしまいます。

 

孫権は、呂蒙の病気を治せる医者を

大金をかけて募集しますが、呂蒙の病気を治せるものはいませんでした。

華佗がいれば可能性あったんでしょうけど・・・

 

ちなみに呂蒙が亡くなるまでの間、呂蒙の体調が少しでも良くなると孫権は喜び、

体調が少しでも悪化すれば悲しんだと言われています。

 

 

関羽が死んで間もなく呂蒙も亡くなった事から、

三国志演義では、関羽の呪いで死んだという設定になっています。

 

どういうことかというと、荊州を奪った事で祝宴が行われていた最中、

関羽が呂蒙にとりつかれて孫権に掴みかかって暴れるという事態に・・・・

 

そしてその後、呂蒙は全身から血を噴出させて死亡してしまうという

びっくりするような死に方で亡くなります。

 

まぁ三国志演義では、劉備が主人公ですから、

劉備の義兄弟である関羽を殺した呂蒙は、狂った死をプレゼントされたのでしょう。

後世の評価

三国志正史を完成させた陳寿は、

「呂蒙は勇敢であり、策略を練って決断力に優れた人物だった。

軍略というものがなんなのかをきちんと理解しており、関羽を捕らえた事はその集大成である。

 

若かりし頃は、武力一辺倒で役人を殺したこともあったが、

その後、己を磨いて呉の国を背負う人物まで成長した。誰にでもできることではない。」

と大絶賛しています。

 

 

後の世である唐の時代(618年~907年)には、

中国の64人の偉人達が選ばれていますが、この中にも呂蒙は選ばれています。

 

ちなみにですが、三国志の時代から選ばれたのは、

呂蒙以外に関羽・張飛・張遼・鄧艾・周瑜・陸遜・陸抗の7名しかいません。

 

それほど後世でも高い評価を呂蒙は受けているのです。