魏の高句麗討伐への足場になった公孫淵討伐

魏の曹叡の時代、

遼東半島を支配下に置いていた公孫一族(公孫瓚一族とは別)であった公孫淵が、

魏に反旗を翻し、燕王を名乗り独立する動きを見せます。

 

しかしこの公孫淵の夢は、

あっさりと司馬懿によって潰されてしまいます。

二股外交の先に、独立国を夢見た公孫淵

 

 

ただ司馬懿が公孫淵を討伐した意味は非常に大きく、

その先にある朝鮮半島と日本海への通路が見えてくるからです。

 

実際公孫淵を討って、遼東半島を魏の支配下に置けたことで、

倭(日本)の卑弥呼からの使者が魏へ訪問してきたという事実もあります。

高句麗の背信的行為

高句麗(こうくり)は漢の時代から中国に朝貢を行っており、

魏の時代も朝貢の使者が送られていました。

 

しかし公孫一族のお陰で

高句麗と魏との間で壁になってくれてたんです。

 

それをいいことに高句麗王であった位宮(いきゅう)は、

朝貢することをやめ、魏に対して背信的な態度をとるようになってきます。

 

そういう高句麗の態度に気づきながらも、

魏はそこまで手を回すことができずに放置せざるをえない状況でした。

魏が高句麗へ対応が遅れていた理由

 

曹丕も曹叡も公孫一族が壁になっていたこともそうですが、

呉・蜀への対応もしなければいけず、そちらにまで手を回す余裕がなかったというのが正直な所です。

 

高句麗同様、公孫一族をこれまで討伐せず、

官位を与えて懐柔策をとってきた裏側にもそういう理由があったわけです。

 

 

しかし公孫一族の公孫淵を司馬懿が打ち破った事で

遼東半島を支配下に置く事に成功します。

 

またこの時代、諸葛亮も死んでことで蜀からの侵攻も少なくなり、

また呉との争いも減っていました。

 

その為に余裕ができた魏は、

タイミング的にも背信的な態度を続ける高句麗討伐へ乗り出したわけですね。

第一次高句麗討伐

高句麗遠征への余裕が生まれた魏は、

毌丘倹(かんきゅうけん)に命じて高句麗討伐を命じます。

 

期待に応えて高句麗討伐に乗り出し、

高句麗の都であった丸都を破壊する事に成功し、

高句麗王であった位宮(いきゅう)をあと一歩の所まで追い詰めます。

 

しかしつめが甘かったせいか、

最後の最後で位宮とその妻子を取り逃がしてしまいます。

高句麗討伐最大の功労者で、魏への忠誠を貫いた毌丘倹(かんきゅうけん)

第二次高句麗討伐

 

 

それから3年後、再び位宮を討つために1万人の兵を引き連れ出陣し、

2倍の兵力差があったにもかかわらず、毌丘倹は位宮軍を撃破。

 

またもや逃げる位宮を今度こそ取り逃がさないために、

毌丘倹は玄菟郡(げんとぐん)太守の王頎(おうき)に追撃を命じました。

 

 

この追撃は、毌丘倹の意地が垣間見えた追撃で、

千里を超えての追撃を続けています。

 

ちなみに千里は大体4000kmぐらいなので、相当な距離になります。

しかしその甲斐あって、位宮を討ち取る事に成功。

 

魏に背く高句麗を討伐する事に成功したわけです。

この時の高句麗軍の死者は8000人を超えたと言われています。

高句麗の未来を憂いた忠臣、得来(とくらい)

 

高句麗は上でも述べてきたように、

都であった丸都は破壊され、多くの民が犠牲になり、

最終的に高句麗王だった位宮まで討たれて、完全敗北を喫してしまいます。

 

しかし高句麗には、これを未然に防ごうとした人物がいました。

 

 

その人物は得来(とくらい)という人物で、

魏に長く背信的行為を続けていた位宮に対して、

 

「今のような態度を続けていると高句麗に未来はない」

といつも諫めていました。

 

しかし位宮は最後まで得来の言葉を聞く事はなく、

得来の不安が現実のものとなっていきます。

 

 

そして、魏が毌丘倹を総大将にして、

高句麗へ攻め込んでくるという知らせが入ってきます。

 

これを聞いた得来は、

「魏が攻めてくれば、たちまちのうちに高句麗を制圧し、

荒野となってしまうだろう」といい、

 

位宮に今からでも魏への背信行為をやめるように、

飲まず食わずで何日も訴え続けますが、

その言葉は位宮に聞き届けられることはありませんでした。

 

最後の最後まで訴え続けた得来は、そのまま餓死してしまいます。

 

 

この話を聞いた毌丘倹は、

「高句麗にも国の事を真剣に考える事ができる優れた者がいたのに・・・」

と国の未来の為に餓死した得来の姿に感動したそうです。

 

そして得来の墓を荒らさず守るように命令し、

得来の妻子を見つける事があれば必ず見逃すようにと言っています。

 

その後の高句麗は、得来が予想した通りの未来になったのでした。

得来の死に様を知ってからの毌丘倹

もしかすると得来という人物を知った事で、

司馬一族の専横を許し、魏皇帝がないがしろにされている今の魏の現状、

それに対して何もできていない毌丘倹自身の現在の状況。

 

この高句麗討伐を経て、様々な感情が芽生え、

魏を我が物顔にしている司馬一族を倒す為に、文欽と共に反乱を起こしたのかもしれませんね。

 

勿論それだけではないでしょうが、

得来が自分の命をかけて国の将来を案じて死んでいった姿に、

毌丘倹自身が少なからず何かを感じたのは間違いないんじゃないかなと想像するわけです。