孫登は孫権の皇太子であり、跡継ぎ候補でした。

 

孫登は聡明な上に、優しさを持った人物で、

多くの人達に愛されていました。

 

そんな孫登が重病にかかり、明日をも知れぬ命となった際に、

孫権の為に書き残した遺言があります。

 

三国志正史の「孫登伝」に書かれている内容の1/3が、孫登の遺言についてです。

短命だった事が悔やまれる心優しき皇太子、孫登(そんとう) ~孫登が長生きしていれば「二宮の変」も起こる事はなかった~

孫登の遺言状の内容

孫登の残した遺言は、

父である孫権の事を想う内容と国の発展を心から願う内容になっています。

 

 

書いた目的は違いますけど、

呉の将来を考えて書き残したという意味で似たような点も多く、

 

諸葛亮の「出師の表」の呉版といえるかもしれませんね。

「出師の表」&「後出師の表」

孫権への謝罪&感謝

「私は、重い病気にかかり長くはないでしょう。

そしてこんな体では、参朝することもままなりません。

 

ですから、このまま死んでしまっても悔いはありませんが、

死んでしまえば国の為に働く事もできず、父上に孝行をできなくなるばかりか、

父上に悲しみを与えてしまいます。

 

それを考えると胸が締め付けられる想いです。

 

 

だけども人の生死は天に決められているものでどうにもなりません。

 

周の太子であった晋や孔子の弟子であった顔回は優れた人物であったにもかかわらず、

天の定められた寿命には逆らえず、若くしてこの世を去りました。

 

ましてや愚かな私が彼らより長生きできただけでなく、

父上に皇太子にまでして頂いたのに、これ以上の幸せはありません。

父である孫権を心配する

現在、国家の行く先もはっきりしておらず、

各地に隠れている賊の討伐も終わっていない状況です。

 

民衆は父上を慕い、命を預けています。

 

そして危険に晒されている者は、安定を待ち望んでおり、

騒乱の中で過ごしている者は、安心できる生活を待ち望んでいます。

 

どうか父上には、親が子を思うという一般的な感情を抑えた上で、

私なんかの事は忘れて、細かい事に動じない黄帝老子の道を究められ、今以上に徳を積んでください。

※伝説上の帝王黄帝と、道家思想の開祖とされる老子とを結び付けた言葉

 

 

そして食事はきちんと取る事を忘れず、神のような思慮をもって、

永遠に伝えられるような事を成し遂げてください。

 

そうなってくれれば、地上に住んでいる全ての者達が救われ、

私自身も死後に思い残すこともありません。

孫和を皇太子に推し、四友を勧める

皇子である孫和は思いやりがあり、

「孝」の精神を持った聡明な人物で、大きな徳を兼ね備えております。

 

私の死後は速やかに孫和を皇太子に立ててくださいませ。

 

 

また私の四友(諸葛恪・張休・顧譚・謝景)は優れた人物なので、

政治を任せるに相応しく、あるいは軍を指揮するに十分な才能を備えています。

 

彼らは国の法律に詳しく、信義を大事にできる者達です。

民衆の事を考えた政治

 

また現在、各地で問題が多発しており、出兵することは仕方のない事ですが、

兵士の士気を高めてあげることを忘れないでください。

 

ただ兵士一人一人にも生活というものがあります。

密かに調べたところ、地方の郡県は荒廃し、民衆は疲弊しています。

 

その為に悪事を考えたり、反乱を起こそうとしている者達がおり、

そうさせない為に更に刑罰を重くしているのが現状です。

 

 

政治というものは、民衆の意見を取り入れつつ行うものであり、

国の法律はその時々の情勢に対して臨機応変に対応するものだと思っています。

 

その為にも広く意見を求め、刑罰・税金を軽減してあげ、

民衆の心に寄り添ってあげる事が必要です。

 

 

陸遜をはじめとする将軍達と話し合って今の制度を見直し、

兵馬を慈しみをもって育て、民衆をいたわってあげてください。

 

そうすれば5年後、10年後には遠くにある者達もこの国に心を寄せ、

兵馬に頼らずとも、自然と天下統一を成し遂げられるのではないかと思うのです。

死を前にして

論語の中に次のような文章があります。

「鳥のまさに死せんとするとき、その鳴くや哀し、 人のまさに死せんとするとき、その言やよし」

 

この言葉が示すように、人は死ぬ時の言葉に嘘はないと言います。

 

楚の子嚢のような大物でさえ、死を前にして国を憂いました。

私は小物ではありますが、そんな私ですら国の行く末を思わずにはいれません。

 

どうか父上には、私の言葉を頭の片隅にでも留め置き、

取り上げて頂ければ、私は死んだとしても生きているのと同じです。」

 

 

これが孫登の孫権に残した遺書になります。

これを見た孫権は涙を流し、孫登の死を心から悲しんだそうです。

孫登の遺言から見るその後

 

孫登の遺言の中にもあった孫和ですけど、

孫権はこの時、皇太子であった孫登以上に孫和を可愛がっていました。

 

 

実際、孫和も優れた才能を持っており、

孫権が孫和を可愛がることで、孫登への愛情が冷めていったにも関わらず、

 

孫登は孫和の事を恨むこともなく、孫権同様に可愛がっていました。

 

 

孫登が死を前にした際に、父である孫権の気持ちを察して、

孫和を跡継ぎとして皇太子に添えるように遺言を残していたんですが、

 

孫権は孫登死後にきちんと遺言通り、孫和を皇太子に添えています。

 

まぁ孫登が言わなくても可愛がっていたので、

孫和を皇太子に添えた気がしますが・・・

 

 

ただその後、孫権が目移りをし、孫覇も同時に可愛がるようになります。

 

これによって孫和派と孫覇派で揉めに揉めて、

最終的に孫和は廃嫡にされ、孫覇に自害させるという始末。

 

この時、呉の重臣であった陸遜も巻き込まれた形で憤死しています。

 

 

孫登が後継者争いで揉める事がないように孫和を推して亡くなり、

孫権が孫和を皇太子にしたまでは良かったものの、その後がまただらしなさすぎます。

 

また陸遜らの重臣の言葉にもっと孫権が言葉を傾けていれば、

おそらくこの孫和と孫覇による「二宮の変」は間違いなく起こらなかったでしょうね。

 

そうすれば孫権死後も、孫和を中心に国は回っていったと思います。

280年に滅んだ呉とは違った未来があったかと・・・

 

 

ですが、なにより孫登が33歳という若さでこの世を去ってしまった事が、

呉にとっては何よりの国難だったと思いますね。

 

これだけ国を想える孫登が、

孫権の跡を継いでいればと思わずにはいられません。