孫権の長男として生まれた孫登ですが、

もしも孫登が長生きして入れば、「二宮の変」が起こることもなく、

 

呉が乱れることもなかったと言われている人物になります。

 

 

逆に言えば孫登が早世してしまったことが、

その延長線上に呉の命運を縮めたと言ってもよいでしょう。

 

そんな呉の未来を隔てる転換点になってしまった孫登について、

ここでは触れていきます。

孫登(そんとう)

孫登孫権の長男として誕生します。

長男が生まれた事は、孫権にとって非常に嬉しかったことでしょう。

 

ただ孫登の母親が身分が低い者だったことで、

孫権の正室である徐夫人の養子として育てられることに・・・

 

 

また魏を建国したばかりの曹丕は、

孫権に対して孫登を人質として差し出すように命じたこともありましたが、

 

孫権としても大事な長男を人質に渡すわけもなく、

「孫登がまだまだ若すぎるから・・・」

という理由で丁重に断っています。

 

この時の孫登の年齢は、大体12歳前後になりますね。

 

 

 

孫権は孫登の側近として、

諸葛恪・張休・陳表・顧譚を仕えさせますが、

 

孫登は彼らと寝食を共にしたり、馬車に乗ったりと

君臣の関係を超えた付き合いをしていったといいます。

 

 

そんな孫登を見ていて、孫権の期待は大きなものとなっていき、

 

地盤を固める意味でも、

名門出身である周瑜の娘(周妃)を、

孫登の妻として迎えています。

 

 

ちなみに軽く余談ですが周妃が早世すると、

芮玄の娘である芮妃を新たな妻として迎えていますね。

周瑜同様に薄命だった子供達(周循・周胤・周妃)

 

 

 

229年、

孫権が皇帝に即位して「呉」を建国すると、

 

孫登は皇太子に据えられることとなります。

 

 

それに伴って孫登の側近であり、

友人でもあった諸葛恪・張休・陳表・顧譚は、

 

皇太子の側近ということで役職を任されることになり、

「太子四友」として孫登を補佐していくことになります。

皇帝に即位した孫権

孫慮(孫登の弟)の死で落ち込む孫権を励ます優しさ

孫登は長男かつ皇太子ではあったのですが、

 

孫権が可愛がっていたのは孫登ではなく、

次男の孫慮(そんりょ)でした。

 

孫権は孫慮を可愛がるようになった理由は、

孫虜が聡明で才能豊かな人物だったからと言われていますね。

 

まぁ孫登と孫慮を比べたら、

孫登の方が優れていたとしか思えませんが・・・

 

 

これに対して孫登は、孫権と孫慮の事を考えた結果、

「私に代えて孫慮を、

父上の皇太子にしたらどうでしょうか?」

と孫権に言ったこともあったようです。

 

だからと言って一度決めた皇太子を簡単に代えたりはしませんけどね。

そんな軽い者でもありませんし・・・

 

 

 

そんな矢先に孫慮が二十歳で早世してしまいます。

 

可愛がっていただけに孫権のショックは計り知れないもので、

食事も喉を通らなくなったとさえ言われています。

 

 

その様子を伝え聞いた孫登は、

武昌から急いで建業に向かい、

 

孫登は孫慮の死を共に悲しみ、

同時に全力で孫権を励ましていますね。

 

 

あまりに心労していた孫権の姿を見て、気が気でない孫登は、

 

「武昌は陸遜に任せていれば、

自分がいなくても支障はなし!」

と判断し、その理由をもって孫権の傍にいる事を願い出ています。

※陸遜は孫登の補佐として武昌に滞在中

 

 

 

ここまで孫登の孫権を労わる様子について記載していますが、

 

孫登の側近であり四友に数えられた陳表が、

亡くなってしまった際の逸話も残っていたりします。

 

 

その逸話がどういったものかというと、

陳表の遺族の為に、わざわざ家を建ててあげたりしたそうです。

孫登の優れた政治手腕

孫登は旧都であった武昌の統治を孫権より任されたのですが、

見事に武昌を治めています。

 

陸遜に補佐されながらではありますが・・・

 

 

また孫登は狩猟に出かけることも多かったのですが、

民の田畑を荒らさないようにいつも気遣っていたといいます。

 

そんな孫登だったからこそ、

民衆からも高い支持を得ていたわけです。

 

 

 

また234年に孫権が合肥新城を攻めた際は、

留守中の建業を孫登に任せたこともありました。

 

 

しかしこんな時に限って、

予期せぬ事が起こってしまいます。

 

それは穀物の不作が起こったことで、

盗賊が増えてしまうことに・・・

 

 

ここで孫登がやったことは、

罰則を定めた科令を取り決めたことでした。

 

またそれだけでなく盗賊対策をしっかりとしたことで、

良い結果を残したわけですね。

 

このように孫登は、政治手腕にも長けていたようです。

孫登の冷静さを物語った逸話(弾球&金碗)

臣下の者達や民衆に対して優しさに溢れた逸話が多い一方で、

武昌の統治であったり、孫権の留守中の対策など見事な手腕を見せた孫登ですが、

 

どんな時でも物事を冷静に判断することができたといいます。

 

 

この逸話は孫登が乗馬して外出していた時の話になります。

 

孫登の目の前を、

金属製の弾球が横切る事があったそうです。

 

 

孫登に従事していた者達は、

弾球を発射する道具を持っていた者を捕らえ、

 

孫登の前へと引き出しました。

 

 

ここで孫登が取った行動は、捕らえた者を罰する前に、

まずは目の前を横切った弾球を探させます。

 

 

しばらくすると横切った弾球が発見されるのですが、

 

捕らえた者の道具から発射する弾球と、

明らかに違っていたことが判明してしまいます。

 

 

そのことをもって孫登は、

「この者に罪は全くなし!」

といって釈放したと言います。

 

 

 

また他にも次のような逸話が残っています。

 

金碗(金の茶碗みたいなもの)が無くなってしまった時に、

無くした者を注意して叱ることはしたものの、それ以上とがめる事もありませんでした。

 

 

またここからが孫登の素晴らしさ(優しさ)が残る逸話ともなっていますね。

 

金碗が無くなったことを二人だけの秘密とし、

不利益を被ることがないようにしてあげたとか・・・

 

 

孫登は不公平な事を嫌い、

どんな時でも冷静に状況を見極めて判断することができたことから、

 

孫登の前では無実の者が、

罪に問われることはなかったといいます。

 

 

 

にしても弾球の話は、

どことなく簡雍と劉備の逸話を思い出してしまいます。

 

劉備が酒の製造を禁止していた時の話ですが、

酒を造るための道具を持っている者を捕らえて罰そうとしたことがありました。

 

 

その際に簡雍が歩いてる男女を見て、

「あの二人は淫行の道具を持っているので、

急いで捕らえましょう」

と言ったわけです。

 

 

そのことを理解できなかった劉備が理由を聞くと、

 

「あの二人は淫行の道具を持ってますからね」

と簡雍は答えます。

 

 

これを聞いた劉備は大笑いして、

捕らえた者を解放してあげたという話になりますね。

いぶし銀、簡雍(かんよう)/劉璋を降伏させた男

孫権の寵愛を受けることなく世を去ってしまうことに・・・

孫慮が死んで皇太子として地位が確固たるものとなったかと思いきや、

今度は孫権の寵愛が孫和(そんか)に・・・

 

 

ただ孫登は孫和とも仲が良かったこともあり、

 

それを恨みに思う事もなく、

孫登も兄として孫和を可愛がっていますね。

 

この時代にあって少しほっこりするような話です。

 

 

心の中では「今度は孫和かよ!」

と思ったのかもしれませんが・・・

 

 

孫登は誰に紹介しても恥ずかしくない人物でしたが、

 

とことんと言っていいほど、

孫権から期待されることはあるものの寵愛を受ける事はありませんでした。

 

 

 

そんな不遇な人生を過ごしていた孫登ですが、

最後の最後まで寵愛を受ける事はなく、

 

33歳の若さで亡くなってしまうことに・・・

「二宮の変」の片棒を担ぎ、不遇の末路を辿った孫和

孫登の遺書(呉版の「出師表」)

孫登は死ぬ直前、孫権に対して遺書を残しています。

 

遺書の内容はというと、

孫権が孫和を寵愛していたことを知っていただけに、

 

「私が死んだら孫和を皇太子・・・」

と孫権の願いを叶えることが書いてありました。

 

 

これ見た孫権は、

孫登の死を心の底から悲しんで涙したといいます。

 

しかし「時すでに遅し」とはまさにこのことかなと・・・

 

 

 

ちなみに孫登の遺言状は、

呉版の「出師表」と言われるほどの素晴らしいもので、

 

もしも孫登が長生きしていれば、

孫権の跡を立派に継いで、呉を更に発展させていった可能性は高いと思います。

 

 

まぁ歴史に「もしも」なんてありませんが・・・

 

 

ただ本当に「もしも」と言いたくなるのが孫登で、

孫登が生きていれば二宮の変が起こることもまずなかったでしょう。

 

そう考えると孫登が死んだ瞬間に、

既に呉の命運は尽きていたと言えるかもしれませんね。

 

 

 

そんな孫登を陳寿は次のように評価しています。

「未来をきっちりと見据えることができる人物で、

かつ豊かな徳の持ち主であった」と・・・

諸葛亮の「出師の表」の呉版、孫登の「遺言状」