江東の二喬(大喬・小喬)

 

孫策・周瑜らが江東制圧に乗り出し、

袁術から孫策は独立して勢力を拡大していた頃、

 

劉勲は長江・淮河地域で勢力を拡大しており、孫策も劉勲を警戒していました。

 

199年、孫策・周瑜らは袁術の臣下であった劉勲(りゅうくん)の隙をついて、

劉勲が治めていた皖城に攻め込みます。

 

 

劉勲は孫策・周瑜らに敗れると曹操の元へ落ち延びていくわけですが、

この時劉勲の元には数か月前に病死した袁術の妻などを引き取っていました。

 

そして孫策が勝利した事で、

袁術の妻子・劉勲の妻子とともに大喬・小喬を捕らえています。

 

この時、孫策は姉の大喬(だいきょう)を、周瑜は妹の小喬(しょうきょう)を妻に娶っています。

これにより孫策・周瑜は大喬・小喬を通じて義兄弟になったわけです。

孫策の惚気(のろけ)

ある時に孫策は周瑜に対して、

「喬公の二人の娘は絶世の美女だが、我々二人を婿に出来たのだから幸せ者だ」

と「どんだけだよ」と突っ込んでしまいそうな話をしたことがありました。

 

この時孫策が発した喬公は、

三公の大尉にまで昇りつめた橋玄という話もありますが、

ただ実際に誰の娘であったかは分かっていません。

 

ちなみに橋玄は、まだ無名であった曹操を大変高く評価した人物です。

 

 

ただこの孫策の言葉から分かる事は、

 

孫策は大喬を愛しており、周瑜も小喬を愛していたといたからこそ、

そんな言葉を孫策は言えたのだと思いますね。

孫策 -江東制覇を成し遂げた小覇王-

孫策・孫権を支え、「天下二分」を思い描いた周瑜

大喬・小喬が袁術の妾だった可能性

大喬・小喬は、孫策が言っているように絶世の美女であり、

中国四大美女と言われた西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃に並ぶほどだったそうです。

 

そしてそんな絶世の美女が誰とも結婚していなかったというのも考えにくく、

既に人妻であった可能性はあるかと思います。

 

 

袁術の事なので、絶世の美女であった大喬・小喬に

全く興味を持たなかったというのも少し考えにくく、妾にしてた可能性は否定できません。

 

特に孫策・周瑜が大喬・小喬を手に入れたのが、

袁術の臣下であった劉勲が立て籠もる皖城を落とした際に捕らえているからこそ尚更です。

 

 

そして劉勲に勝利した孫策・周瑜らが、

袁術から大喬・小喬を奪い取ったような形も十分にある気がします。

 

この時代、女性は戦利品の一つみたいな扱いを受けていましたから。

 

 

孫策は劉勲を討伐した後、袁術の一族を保護しており、

実際に袁術の娘は孫権に嫁いでいますし、袁術の息子であった袁燿も呉に仕えています。

 

袁術の血脈は孫家の中で引き継がれているので十分にありえる話かなと思いますね。

大喬・小喬の父親である喬公が地方の有力豪族であった可能性

 

上でも少し書きましたが、喬公は橋玄である可能性もありますが、

違うとした場合、誰なのかを少し推測してみたいと思います。

 

その場合、喬公が劉勲の支配下にあった長江・淮河地域の豪族という可能性です。

 

 

この時代、地方豪族は非常に力を持っており、

涼州で暴れた韓遂・馬騰を筆頭に反乱を起こした多くの者達が涼州の豪族でした。

 

劉表に仕えていた蔡瑁もまさに荊州で力を持っていた豪族でした。

地方豪族であった蔡瑁の力を借りて、劉表は荊州での地位を確立させています。

 

それだけその地方で力を持っていた豪族の力を借りる事は、

その地域を治めるうえでも非常に大事な事であったんですよね。

 

むしろ豪族を味方に出来ずして、

その地域を治める事は難しいと言ってもいいほどです。

 

 

もし喬公が長江・淮河地域、もしくは揚州で力を持っていた豪族であったならば、

揚州で力を拡大していた孫策にとっても力を貸してほしかったはずです。

 

そして豪族であった喬公の娘を妻に迎える事で、

勢力拡大に利用しようとしたのが孫策だったかもしれませんね。

大喬・小喬は孫策・周瑜に嫁いで幸せだったのか?

 

大喬・小喬は絶世の美女、孫策・周瑜も美男子、

見た目でいえば単純に美男美女カップルなんですが、

 

大喬と小喬は孫策・周瑜に嫁いで幸せになれたのでしょうか?

 

 

大喬は、孫策に嫁いで1年程度で孫策を失っていますし、

この時の孫策は勢力拡大に必死な時期であり、同じ時間を過ごせる時間も短かったでしょう。

 

そういう意味では、

大喬はあまり幸せに感じる時間がなかったかもしれませんね。

 

 

妹の小喬はというと、周瑜も早世していますが、

約11年一緒にいる事ができました。

 

ちなみに大喬・小喬の名が出てくるのは周瑜伝にのみです。

孫策伝にはその名は全く出てきていません。

 

それの意味する所は、

小喬が周瑜にとって大事にされた女性だったからではないでしょうか!?

 

そういう点からも小喬は周瑜と共に過ごしていく中で、

幸せを掴み取った気がします。

 

また大喬・小喬に子供がいたかどうかは記載されておらず、

はっきりしていませんが、私は二人に子供がいたと思いたいですね。