夏侯淵(かこうえん/妙才)

蒼天航路(32巻112P)より画像引用

 

曹操が挙兵した時から夏侯惇と共に曹操に従った人物の一人であり、

義に厚く、多くの者達に慕われていました。

 

曹操が兗州・豫洲と勢力を拡大していくにつれ、

夏侯淵は陳留太守や潁川太守を任されるようになっていきます。

 

 

 

袁紹を官渡の戦いで破った後は、兗州・豫洲・徐州の兵糧管理を任されました。

 

呂布討伐時に臧覇と共に降伏した昌豨しょうきが反旗を翻すと、

夏侯淵は張遼と共に討伐を命じられて討伐に乗り出しますが、

昌豨の軍に苦戦を強いられてしまいます。

 

そこで旧知の中であった張遼が昌豨に降伏を勧めて、これが見事に成功。

三国志演義で平凡に描かれた豪傑「臧覇」

 

それからも夏侯淵は、黄巾の残党軍であった徐和・司馬倶を打ち破ったり、

廬江の雷緒を打ち破ったりと連戦連勝で負けをほとんど知らない男でもありました。

 

そして夏侯淵は、「三日で五百里、六日で千里」移動できたと言われており、

拠点間の行軍であったり、後方支援であったり、奇襲を非常に得意とした将軍でした。

 

ちなみにですが、一里は大体400mなので、

五百里≒200km〜六百里≒240kmを移動できたという事が言える。

涼州平定戦で大活躍

211年に馬超・韓遂らが涼州で反乱を起こすと

曹操に従って遠征して潼関の戦いで馬超・韓遂らを打ち破っています。

 

その後、馬超・韓遂らと共に反乱を起こし、

安定郡に逃げ込んだ楊秋を攻め、討伐する事に成功。

 

馬超・韓遂らを潼関の戦いで破った後も、

何度も反乱を起こす韓遂・馬超らの勢力を弱めるために涼州の地で戦い続けます。

 

最終的に馬超は漢中の張魯の元へ落ち延び、

韓遂は最終的に討ち取られる形で完全に涼州の支配を確立。

反乱に生涯を捧げた男「韓遂」

韓遂の手下八部(関中八部)

 

215年に漢中の張魯が曹操に敗れて降伏すると、

夏侯淵はこれまでの功績を加味されて征西将軍に任命されています。

 

そして対劉備として、漢中の守備をまかされたのです。

漢中攻防戦

蒼天航路(32巻116P)より画像引用

 

そして遂に劉備が夏侯淵が守る漢中へ侵攻を開始します。

 

夏侯淵は、張郃・徐晃と共に協力しながら、

劉備軍と一進一退の攻防を繰り広げていきますが、

 

劉備軍は、軍師の法正をはじめ、

張飛・馬超・黄忠・趙雲・魏延・呉懿・劉封といった主力武将を投入しており、

 

また益州の兵力を総動員してきたこともあり、

兵力的にも劣った夏侯淵らは次第に押されていきます。

 

 

そして曹操の本隊は、吉本の乱、鳥丸族・鮮卑族の反乱、兗州で侯音の乱が起こったりで、

長安まで到達していたものの動くに動けず、そこで完全に足止めを食らっていました。

劉備が夏侯淵を倒せたのは侯音のお陰だった?

 

本来ならば、曹操の本隊の到着が遅れていたとしても、

 

夏侯淵は張郃・徐晃と協力しながら、

援軍が到着するまで持ちこたえれるだけの可能性は十分にあったはずです。

 

 

しかし行軍速度に自信を持っていた夏侯淵は、騎馬隊1000騎を引き連れて、

焼き払われていた逆茂木さかもぎの修復に向かってしまいます。

 

見事におびき出される形になってしまった夏侯淵ですが、

それと同時に不運が重なってしまいます。

 

法正の策にはまった張郃らの為に兵を半数割いて、

率いる兵を半分にしてしまったのでした。

 

そしてそこを法正の策で待ち構えていた黄忠に襲われ、討ち取られてしまいます。

 

 

奇襲を得意とした夏侯淵が、

最後は奇襲で討ち取られる形となったのは皮肉な話です。

夏侯淵の子供達の生涯(夏侯衡・夏侯覇・夏侯称・ 夏侯威・ 夏侯栄・夏侯恵・夏侯和)

夏侯淵が討ち取られた事を聞いた曹操の反応

 

曹操は夏侯淵のことを非常に信用しているとともに、

高く評価していたので、曹操の妻の妹を嫁に与えていたほどでした。

 

特に夏侯淵が涼州の宋建を滅ぼした際に、

曹操は次のような事を言って完全にべた褒めしています。

 

「宋建が謀反を起こして早くも30年がたつが、

夏侯淵はたったの1回の戦いで宋建を滅ぼしてしまった。

 

関右の地(涼州地域辺りのこと)に攻め入ること、まさに敵なしと言うべきだろう。

 

その昔、孔子は「私も弟子の顔回には及ばない」と言ったことがあったが、

これは孔子と顔回だけでなく、私自身と夏侯淵の間にも言えることだ!」

 

 

ただそれと同時に曹操は、

次のようなことも夏侯淵に言って注意も促していました。

 

その言葉は、「指揮官に必要なものは勇猛さばかりではなく、

時には臆病になって慎重になることも大事であって、

どうしても行動しなければいけない時は必ず策を用いよ」というものでした。

 

 

そして夏侯淵が定軍山で討ち取られた原因が、

少人数で逆茂木の修繕に向かった所を討たれたと聞くと、

 

「指揮官たるもの自ら戦う事は避けなくてはならない。

ましてや逆茂木の修復に向かうとは何事だ・・・」と夏侯淵の死を悲しむと同時に落胆したといいます。

三国志演義での夏侯淵

三国志演義での夏侯淵は夏侯惇の弟として登場します。

実際の夏侯淵と夏侯惇の関係は従兄弟です。

 

 

弓を非常に得意とした将軍として描かれ、

 

鄴で銅雀台を完成させたときは、

的に既に当たっていた四本の矢の真ん中を射抜く離れ業を見せています。

 

そして夏侯淵は、曹操軍の中で多くの活躍を見せていますが、

最終的に定軍山の戦いで正史同様に命を落としています。