定軍山で黄忠に討たれてしまった夏侯淵ですが、

夏侯淵には多くの子供がいました。

 

夏侯覇なんかは知名度が高いですが、

案外知られていないけど優秀な人物もいたりします。

 

 

夏侯淵と対を成した夏侯一族と言えば、いわずもがな夏侯惇になりますが、

それぞれの子供達を見ると雲泥の差があったりするんですよね。

 

ちなみに記録として残っている夏侯淵の子供達は、

以下の七人になります。

  • 夏侯衡(かこうこう)
  • 夏侯覇(かこうは)
  • 夏侯称(かこうしょう)
  • 夏侯威(かこうい)
  • 夏侯栄(かこうえい)
  • 夏侯恵(かこうけい)
  • 夏侯和(かこうわ)

 

ちなみに夏侯楙かこうぼうも夏侯淵の子供じゃないの?」

と言う人もいるかもしれませんが、

 

それは三国志演義だけの設定になりますね。

 

 

三国志演義では夏侯楙は夏侯淵の子供で、

夏侯惇の養子になっていますが、実際は夏侯惇の実子です。

圧倒的機動力を武器とした将軍、夏侯淵

夏侯衡(かこうこう)

夏侯淵が定軍山で討ち取られると、

夏侯淵が持っていた安寧亭侯の爵位と封戸(色邑)を引き継いだ長男坊です。

 

 

夏侯衡は、

曹操の弟である海陽哀侯の娘を妻に娶ったそうです。

 

ただこの「海陽哀侯」という名前は、

「夏侯淵伝」にしか名前が出てこない人物です。

 

 

ただ私の知る限り曹操の弟は、

徐州で曹操の父であった曹嵩と共に死亡した曹徳そうとく以外にいないと思うので、

普通に考えたら曹徳の娘と考えるのが普通だと思いますが・・・

 

ただ記録が残っていない曹操の弟がいたとしたら、それを知るすべはないですね。

夏侯衡の没年を推測

そんな夏侯衡ですが、没年に関する記載が良く分かりません。

ただ夏侯衡の弟の情報を基に推測はする事は可能です。

 

黄初年間(220年~226年)に次男であった夏侯覇は出世しています。

また太和年間(227年~238年)に、夏侯覇の四人の弟が出世していることが分かっています。

 

 

ちなみにですけど四男であった夏侯栄は、

夏侯淵と共に死んでいるので、

 

それを考えた場合、夏侯覇の弟は四人しかいないことになります。

ようは夏侯淵の子供達は全て出世しているんですよね。

 

にも関わらず、夏侯衡だけ出世していないとは考えられない事から、

次男の夏侯覇が出世した頃には既に死んでいた可能性が高いと思います。

 

 

また次男の夏侯覇は180年~184年の間に生まれた可能性が高く、

夏侯淵が定軍山で死亡したのが219年。

 

ということは夏侯淵が亡くなった頃の夏侯覇の年齢は、

大体ですが、35歳〜40歳ぐらいだったことが自然と分かります。

 

そのあたりから考えた場合、

夏侯衡は46歳〜50歳ぐらいじゃなかったかなと思いますね。

夏侯衡死後

夏侯衡が亡くなった後は、

夏侯績かこうせきが跡を継ぐ形で爵位を引き継いでいます。

 

その後に夏侯績は虎賁中郎将に任命されています。

 

 

おそらく夏侯衡が死んでいなければ、

虎賁中郎将を貰えてたんじゃないかと思いますね。

 

死んでしまったから仕方なく、父の跡を引き継いだ夏侯績に与えられたのでしょう。

 

 

また夏侯績が亡くなった後は、

夏侯績の子である夏侯褒かこうほうが跡を継いだそうです。

夏侯覇(かこうは)

おそらく夏侯淵の子供の中で一番有名な人です。

 

 

司馬懿がクーデターを起こして、曹爽一族を処刑すると、

 

自分自身にも危害が及ぶと考えた夏侯覇は、

司馬懿に対して反乱を起こしますが、司馬懿の命令を受けた郭淮に撃退されてしまいます。

 

 

敗れた夏侯覇は行くところがなくなり、

敵国であった蜀へ落ち延びました。

 

 

ちなみに張飛の妻であった夏侯氏が夏侯淵の一族であった事からも、

夏侯覇は劉禅とも親戚関係にあったわけです。

 

それが亡命先に蜀を選んだ理由だと言われています。

まぁ呉はさすがに立地的にも遠すぎたというのもあるとは思いますけどね。

 

 

それ以後は姜維の行う北伐で活躍していき、

最終的に車騎将軍まで昇りつめ、生涯蜀に仕えています。

山の中で嫁(夏侯氏)を見つけてきた張飛

夏侯称(かこうしょう)

夏侯称は武術に優れていたようで、

父親の夏侯淵同様に弓術を得意としていました。

 

 

ある時、夏侯淵や曹操らと狩りに出かけたところ、

 

「走ってくる虎に遭遇した時は、その虎を一矢で射抜いた」

という話も残っています。

 

その様子を見た曹操は

「私はお前を手に入れたぞ」と絶賛しました。

この時、わずか16歳だったといいます。

 

 

曹丕とは身分を越えて対等に付き合っていたという話も残っており、

 

夏侯淵や夏侯惇が身分を越えて、

曹操と付き合っていた話を連想させるところがありますね。

 

ただ将来有望であったにも関わらず、

その二年後にあたる18歳で亡くなっています。

夏侯威(かこうい)

太和年間(227年~238年)に

夏侯称・夏侯恵・夏侯和と共に「関内侯」という爵位を頂いてます。

 

ちなみに夏侯威は、

荊州刺史・兗州刺史を歴任しています。

 

 

また夏侯威が泰山郡で羊祜ようこと出会った時に、

羊祜が並々ならぬ才能を持っていると感じた夏侯威は、

 

夏侯覇に頼み込んで、夏侯覇の娘を羊祜に嫁がせせています。

 

 

そんな夏侯威ですが、自分の人相を朱建平しゅけんぺいに見てもらった所、

 

「49歳の時に州牧になるけれども、

その時に災難が降りかかる。

 

もしもその災難を乗り越える事ができれば、

70歳まで生きる事が可能な上に、

 

天子の後見人を任される事になるだろう!」

と言われたことがありました。

 

 

して夏侯威は、49歳の年の12月に病気にかかってしまいます。

 

朱建平の言葉を思い出した夏侯威は、

自分の死を悟って葬儀の準備をさせたようです。

 

 

ただ夏侯威の様態は、その後回復に向かった事で、

 

夏侯威は50歳になる前日

「これで70歳までは生きられる!」と祝宴を開きました。

 

しかし50歳を迎える目前に病が悪化して、

そのまま息を引き取っています。

 

 

夏侯威の子である夏侯駿かこうしゅんが、

司馬一族の司馬亮の娘と結婚した事で、

 

司馬一族と親戚関係になったようで、

夏侯威の子孫は、晋の時代になって更に栄えたそうです。

夏侯栄(かこうえい)

夏侯栄は幼いころか文才に優れており、

七歳にして文書を書けるようになったほどでした。

 

一日に書物を千字を暗誦し、目を通すだけで暗記できたそうです。

記憶力も抜群だったのでしょうね。

 

 

夏侯栄の記憶力に関する逸話は他にも残っています。

 

ある席で一人一人が夏侯栄と少し話しただけで、

顔と名前を全て覚えたそうです。

 

その数は百人をゆうに超えたといいます。

 

 

そして夏侯栄は、曹丕の子であった曹叡とも親しくしていました。

 

 

夏侯称と曹丕もそうですが、

夏侯一族と曹一族は、夏侯淵・夏侯惇と曹操の関係からも、

 

その子供達も影響を受けて、良くなるような感じになっていたのかもしれませんね。

漢中攻防戦

そんな夏侯栄ですが、劉備が漢中へ侵攻してくると、

父である夏侯淵と共に漢中を守っていました。

 

 

 

しかし夏侯淵が定軍山で黄忠に討ち取られたことを知ると、

まだ13歳であった夏侯栄に退却するように周りに勧められたようですが、

 

 

「父上らが命を懸けて戦っている中で、

私一人だけ逃げる事などありえぬ!!」と叫ぶと、

 

劉備軍に突撃して、生涯に幕を下ろしています。

 

 

ちなみに夏侯栄の名前は、陳寿の「三国志」には見られませんが、

裴松之が注釈を加えた「魏晋世語」に名前が見られますね。

夏侯恵(かこうけい)

夏侯恵は幼い頃から学問に励んでおり、

意見書の作成なども得意としていたようですね。

 

太和年間(227年~238年)に

夏侯称・夏侯威・夏侯和と共に「関内侯」という爵位を頂いてます。

 

夏侯恵は散騎侍郎・黄門侍郎を歴任し、

最終的に楽安太守を任されました。

 

そんな夏侯恵ですが37歳で亡くなっています。

 

 

37歳で亡くなった夏侯恵ですが、

曹叡から中央で優れた人材を求める詔勅が出された時の話が残っています。

 

夏侯恵はかねてより評価していた劉劭りゅうしょうの推薦文を書いて上奏し、

皇帝の側近として劉劭を取り立てるように推挙したそうです。

 

そんな劉劭ですが、「許都の賦」「洛都の賦」「法論」「人物志」等の作品を残しました。

夏侯和(かこうわ)

夏侯淵の末子で、才能豊かで弁舌が得意だったようです。

 

太和年間(227年~238年)に

夏侯称・夏侯威・夏侯恵と共に「関内侯」という爵位を頂いてます。

 

 

司馬昭の左司馬に抜擢され、

 

263年に鄧艾・鍾会によって蜀が滅亡すると、

魏の使者として成都へ派遣されたのが夏侯和でした。

 

 

しかし鍾会が姜維と組んで成都で反乱が起きた場面に直面した際は、

朱撫・賈輔・羊琇らと協力して防いでいます。

 

そして鍾会・姜維の反乱が鎮圧されると、

この功績から賈輔と共に「郷侯」に封じられたそうです。

 

 

 

 

またどうでもいいことかもしれませんが、

247年に河東郡から平陽郡が分割される形で設置されています。

 

その後に司州の河南尹(郡)の太常に任命された時の事です。

 

 

 

そして司馬炎が司馬昭の跡を継いで晋を建国した後の話になりますが、

ある時に司馬炎が病にかかり、重体になってしまいます。

 

この時に夏侯和は、賈逵の息子であった賈充かじゅうに対して、

賈充の娘を妻としていた司馬攸を擁立するように話したことがあったそうです。

 

 

しかし司馬炎が回復した際にその時の二人の話が耳に入り、

 

賈充の兵権を一部剥奪し、

夏侯和は「光禄勲」に降格させられたといいます。

 

それでも光禄勲は「九卿」なので、十分に高い役職ではあるのですけどね。

夏侯淵の子供達について

夏侯淵の子供達を紹介してみましたが、

一人一人が二世として恥じないぐらいに秀でている人物が多いですね。

 

おそらく二世としては魏に留まらず、

三国志全体を見てもトップクラスの優れている一族だと思います。

 

 

「魏の五大将軍」の息子達でさえかなりひどい感じですし・・・

 

 

また曹操軍の中で両翼を成した夏侯惇と夏侯淵ですが、

どちらも曹操の旗揚げ時から曹操を支えてきた者達でした。

 

しかしそれぞれの子供達だけで見た場合、

後に魏を支える人材を多く輩出した夏侯淵の一族の方に軍配は上がりそうな気はします。

 

 

まぁ夏侯惇と夏侯淵の生涯の戦歴を比較しても、

夏侯淵の方が優れている感じもしますので、

 

単純に親から優れた才能を引き継いだだけなのかもしれませんが・・・

魏の五大将軍(張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃)の子供(二世:張虎・楽綝・于圭・張雄・徐蓋)ってどういう活躍をしたの?