孫堅・孫策に認められた韓当(義公)

韓当は幽州遼西郡令支県の出身であり、

弓馬に優れており、かつ腕力もある人物であったことから、

孫堅に大層に気に入られ、韓当自身もそんな孫堅に付き従います。

 

韓当はたびたび危険を犯して敵陣を落とし、敵を捕虜としたので、別部司馬に任じらます。

 

 

孫堅が黄祖との戦いの中で命を落とすと、孫策に付き従って江東制圧で手柄をあげ、

先登校尉に任じられ、兵二千人・騎馬五十頭を授かったのでした。

 

-江東制圧戦-

  1. 丹陽郡→劉繇討伐
  2. 呉郡→許貢・厳白虎討伐
  3. 会稽郡→王朗討伐

 

ちなみに孫策の江東戦では、程普・黄蓋・朱治らも従っており、

程普もまた韓当と同様に、兵二千人・騎馬五十頭を授けられています。

程普 -赤壁の戦いで右都督に任じられた孫家三代の重臣-

劉勲・黄祖討伐戦

 

孫策は劉曄から賊であった鄭宝の軍勢を譲り受けたり、

滅亡した袁術勢力を急襲していた事で孫策もおそれる程の勢力に成長していました。

 

しかし孫策は劉勲(廬江太守)討伐の機会を狙っており、

策を用いて劉勲の本拠としていた皖城を陥落させることに成功します。

 

この時に劉勲は江夏太守であった黄祖に助けを求め、

黄祖は息子の黄射に五千の兵を預けて援軍を送るも、その到着前に劉勲は孫策に敗れています。

 

劉勲の敗北を知った黄射はそのまま撤退していったわけですが、韓当はこの戦いにも参加しています。

この時に黄祖の妻子であった男女七人を捕虜としているのは余談です。

 

ちなみに韓当はこの後に楽安県長に任じられています。

孫家三代(孫堅・孫策・孫権)を翻弄した黄祖

赤壁の戦い

208年7月に南方制圧の為に大軍を率いて南下すると、

不運にも劉表が病没し、劉琮が跡を継ぐものの戦わずして曹操に降伏します。

 

劉琮の軍勢を吸収した曹操は、その勢いそのままに逃亡する劉備を追撃したわけですが、

劉備と孫権が手を組んだことで、二人と赤壁で激突する流れとなります。

 

黄蓋の火計の提案を周瑜は採用し、赤壁の戦いは連合軍の勝利に幕を下ろします。

 

韓当はこの赤壁の戦いにも参加して戦功をあげていますが、

「呉志」黄蓋伝の呉書(裴松之注)には韓当が黄蓋を助けた逸話が残されています。

赤壁之役、蓋爲流矢所中、時寒墮水、

爲吳軍人所得、不知其蓋也、置廁牀中。

 

蓋自彊以一聲呼韓當、當聞之、

曰「此公覆聲也」向之垂涕、解易其衣、遂以得生。

赤壁の戦いの中で、黄蓋は流れ矢に当たって川の中と落ちてしまいます。

 

黄蓋は呉側の兵士に救い出されるものの、

救い出した者達はその人物が黄蓋だと気づくことはなかったのです。

 

まだ戦いの最中であった事からも、その兵士らは厠(厠牀)に黄蓋を避難させると、

そのまま置き去りにされ、放置されることとなります。

 

命の危機が迫っていた黄蓋でしたが、顔なじみであった韓当の姿を発見すると、

気力を振り絞って一声したことで、韓当はその声を聴いて「公覆殿の声だ!」と気づいたのでした。

 

そして黄蓋のもとへと駆け寄った韓当は、

黄蓋の濡れた衣服を取り換えてあげたことで、黄蓋は救い出されたのでした。

 

また韓当は周瑜・呂蒙らと共に南郡(江陵城)を守っていた曹仁を攻め、

約一年間にわたって苦戦を強いられるものの、最終的に曹仁を撤退に追いやる事に成功しています。

夷陵の戦い(蜀)&三方面からの侵攻(魏)

時は流れた222年、呂蒙・陸遜らが関羽から奪い取った荊州奪還の為に、

劉備は趙雲らの諌めも聞くことなく侵攻を開始します。

 

この夷陵の戦いに、陸遜・朱然らと共に韓当も参加し、最終的に火計を用いて大勝利を収めています。

ちなみにですが、他にも潘璋・宋謙・徐盛・鮮于丹・孫桓らも参加していますね。

 

 

夷陵の大戦での危機を脱出した呉の軍勢でしたが、

今度は手を組んでいたはずの魏が三方面から呉の領土へと進行を開始してきたのです。

 

陸遜らが深く蜀軍を追撃していなかったことが幸いし、

また江陵城を守っていた朱然の活躍により、三方面の一角である荊州方面の撃退に成功します。

  • 曹真VS朱然(朱然の勝利)

 

そして他の二方面もそれぞれに呉側の勝利で幕を下ろしています。

  • 曹休VS呂範(呂範の勝利)
  • 曹仁VS朱桓(朱桓の勝利)

韓当の最期

各地で確実に結果を残し続けた韓当は、孫権から大きく信頼され、

黄武二年(223年)、石城侯に封じられ、昭武将軍へ昇進したのでした。

 

また冠軍太守にも任じられ、都督の称号も与えられています。

 

冠軍太守は冠軍郡の太守というそのままの意味なわけですが、

冠軍郡は孫権が独自に設置した郡であり、もともと曹操領であった南陽郡の冠軍県を「郡」と決めた場所になります。

この場所に韓当を太守として任命したという流れになりますね。

 

後に敢死兵・解煩兵(一万人)を率いて、丹陽郡の賊を討伐した記録が残されています。

そんな韓当でしたが、それから間もなくして病死しています。(黄武五年(226年))

敢死兵→自ら死に望む兵士

  • 208年の黄祖戦の中で、董襲や凌統が敢死兵を率いた記録あり。
  • 212年の第一次濡須口の戦いの中で、董襲が敢死兵を率いた記録あり。
  • 215年の合肥の戦いの中で、凌統が敢死兵を率いた記録あり。

 

解煩兵→私情を挟まずに敵を滅ぼす兵士

  • 夷陵の戦いの中で胡綜が徴兵し、胡綜(右隊)・徐詳(左隊)が率いた記録あり。
  • 韓当が亡くなった後に、陳修(陳武の息子)が解煩兵を任された記録あり。

 

ちなみに最後の余談になりますが、家督を継いだ韓綜かんそうが失態を犯したことがありました。

 

普通なら当然のように罰せられるところを、

生前の韓当の功績に免じて罪を問わなかったという逸話も残されています。

 

 

ただ最終的に韓綜はそんな孫権の想いを裏切るだけではなく、

長らく呉の為に尽くしてきた亡き韓当の顔にに泥を塗る形で魏へと降るのでした。

 

またそれだけにとどまらず、呉の国境を侵した事が何度もあったといいます。