韓当(かんとう/義公)

韓当は孫堅によって見出された人物でした。

 

孫堅に仕えたものの最初は身分は低かったのですが、

憂悶果敢に突撃して敵を打ち破ったりと確実に手柄を立てていきます。

 

そうして次第に頭角をあらわし、

孫堅によって別部司馬に任じらることになりました。

江東制圧戦

孫堅が劉表の戦いで討死すると、孫策が跡を継いで勢力拡大に乗り出しますが、

この時に黄蓋・程普・朱治らとともに孫策に付き従っています。

 

 

孫策が江東制覇の為に快進撃を続けていましたが、

 

その際に、まずは劉繇が治めていた丹陽郡を奪い、

次に許貢が治めていた呉郡・王朗が治めていた会稽郡の奪取に成功します。

 

韓当はこれらすべての戦いに参戦。

孫策にも韓当の功績が認められて、兵士二千人・馬五十頭が与えられました。

 

韓当が兵持ち将軍になった瞬間でした。

 

 

ちなみにですけど、

程普も韓当と同じく兵士二千人・馬五十頭が与えられています。

 

まさに孫堅時代からの功績も含めてもあるでしょう。

韓当と程普は、孫策によってともに高い評価を受けたのでした。

孫家三代に仕えたオールラウンダー、程普

劉勲討伐戦

孫策は江東の地で領地を大幅に拡大しましたが、

形上は、袁術傘下の臣下の立場であったのも事実でした。

 

しかし孫策は独立の機会を狙っていたこともあり、

袁術が皇帝を自称した瞬間に完全に袁術から独立を宣言。

 

 

袁術は皇帝を名乗った事で、

曹操・劉備・呂布といった周りの群雄から目をつけられ、

 

最後は完全に自滅した形で、

「はちみつ食べたい」とか言いながら死んだなんて言われています。

 

 

劉勲もまた袁術の臣下でもありましたが、

袁術の亡き後は、袁術や劉繇の敗残兵なども吸収したことで、

 

孫策も油断できないほどの地盤を形成させました。

 

 

ただそんな劉勲も孫策の敵ではなく、孫策の策略にはまった形で完敗して決着。

もちろんですが、この戦いにも韓当は参加して果敢に戦ったそうです。

黄祖討伐戦

孫堅が劉表を攻めていた際に討死するのですが、

この時孫堅を討死させたのが黄祖という人物でした。

 

孫策は、いつか父の仇を討たねばと心に決めていた矢先に、

 

先の戦で破った劉勲が黄祖に助けを求めた事で、

ここぞとばかりに黄祖・劉勲討伐の為に江夏へ兵を進めました。

 

 

この戦いにも韓当は参加しており、

韓当以外の孫堅四天王だった程普・黄蓋らも弔い合戦とばかりに参加しています。

 

また周瑜・呂範といった面子まで参加しており、

このことからも孫策は全力で黄祖・劉勲討伐に乗り出したことがわかりますね。

 

 

黄祖は劉勲に五千の兵を援軍に送ったはいいものの、

劉勲は孫策に恐れをなして、兵を見捨てて曹操の元へ逃亡。

 

戦いの原因を作った劉勲ですが、真っ先にとんずらしてしまったわけです。

黄祖からしたら本当にたまらなかったでしょうね(笑)

 

 

劉勲が曹操の元へ逃亡したからと戦いが終わったわけではなく、

孫策軍と黄祖軍の戦いは続きました。

 

しかし全ての面で劣っていた黄祖側は、

江夏城こそ落とされていないものの完膚なきまでに敗北を喫します。

孫家三代(孫堅・孫策・孫権)を翻弄した黄祖

赤壁の戦い

208年7月に南方制圧の為に大軍を率いて南下すると、

劉豹死後の跡を継いだばかりの劉琮は戦わずして曹操に降伏。

 

劉琮の荊州軍を吸収した曹操軍は、

劉備・孫権を滅ぼすべく赤壁の地へ軍を進めます。

 

周瑜の指揮のもと、韓当は呉の命運がかかったこの戦いにも参加。

 

 

ちなみに苦肉の策を用いた黄蓋は、

 

偽りの降伏から曹操軍に火計を持って打ち破ることに成功したものの

流れ矢にあたって、川に落ちてしまいました。

 

 

なんとか救い出された黄蓋でしたが、

黄蓋を救った者は、その者が黄蓋だと気づかずに厠に放置する始末。

 

体が冷え切っていた黄蓋は凍え死にそうになってしまいますが、

孫堅時代から苦楽を共にしてきた韓当によってなんとか救い出されました。

 

韓当は黄蓋の濡れた服を、自ら着せ替えてあげたといいます。

赤壁の戦いでの勝利の立役者「黄蓋」

夷陵の戦い(蜀)&三方面からの侵攻(魏)

時は流れて222年、関羽の復讐戦として劉備が呉へ侵攻を開始。

 

赤壁の戦い以後も各地の戦いに参加してきた韓当ですが、

当たり前のようにこの大事な一戦にも参加しています。

 

そして陸遜の指揮のもと、劉備軍に対して圧勝。

 

 

国の存亡をかけた戦いに勝利した呉軍でしたが、

呉と蜀が全力で衝突している隙をついて、今度は魏が三方面から攻め込んできます。

 

陸遜らは急いで引き返して魏に対応。

 

韓当は江陵方面に侵攻してきた曹真軍を迎えうち、見事に守り抜くことに成功。

その後の韓当

 

これまでの功績を大きく評価された形で、最終的に都督にまで出世しました。

 

孫堅・孫策・孫権と孫家三代にわたって、

大事な戦いには全てと言っていいほど参加しており、

 

その中でこれといった失態もなく、

任された職務に対して結果を残し続けた韓当は、孫権からの信望も非常に高かったようです。

 

 

ちなみに余談になりますが、

韓当が死んだ後に韓当の子である韓綜かんそうが失態を犯したことがありました。

 

普通なら処刑されてもおかしくないことでしたが、

韓当のこれまでの功績に免じて、孫権は韓綜の罪を問わなかったという話も残っています。