賈充(かじゅう、字:公閭こうりょ

三国時代の終盤から西晋の成立にかけて、非常に重要な人物の一人が賈充です。

建安22年(217年)、司隷河東郡襄陵県(247年以降は区画整理により司州平陽郡襄陵県となっている。)の人として生まれました。

父は曹魏の重臣として知られる賈逵かきです。

賈逵は魏の豫州刺史を務め、陽里亭侯に封じられた人物でした。

 

晩年になって生まれた子が賈充だったため、

賈逵は「後に充閭の慶(門を充たすほどのめでたい出来事)があるだろう」という意味を込めて、

息子を「充」と名付けたと正史『晋書』は伝えています。

 

ところが、賈充がまだ幼い 太和2年(228年)、父の賈逵が亡くなってしまいます。

賈充は若くして父を失い、喪に服した際には「孝をもって聞こえた」と記録されています。

そして父・賈逵の爵位である陽里亭侯を継承することになりました。

ここから、賈充の長い政治人生が始まります。

曹魏の官僚として出世する

父の跡を継いだ賈充は、やがて朝廷に仕えます。

最初は尚書郎となり、法令の制定や財政・官吏の考課などに携わりました。

その後、黄門侍郎、汲郡典農中郎将などを歴任し、政治家として着実に出世していきます。

 

ここで注意したいのが、賈充を単純に「曹爽一派」と説明することです。

賈充は曹爽政権の時代にも官職を得ていますが、

後世の解説でよく見られるような「曹爽派の中心人物だった」と単純化するのは適切ではありません。

 

賈充の本格的な政治的飛躍は、むしろ司馬氏が魏朝廷の実権を握ってから始まります。

司馬懿が高平陵の変によって曹爽一派を倒した後も、賈充は生き残りました。

そして、その後は司馬氏に接近し、司馬師・司馬昭の側近として重要な役割を果たすようになります。

 

つまり賈充は、

曹魏の官僚 → 司馬氏の側近 → 西晋建国の功臣

という形で、時代の大きな変化を生き抜いた人物だったのです。

毌丘倹・文欽の乱

正元2年(255年)、魏では毌丘倹かんきゅうけんと文欽が司馬師に対して反乱を起こします。

これは、司馬氏の専横に反発する勢力による大規模な反乱でした。

賈充は司馬師に従って、この討伐に参加します。

 

司馬師は楽嘉で毌丘倹・文欽の軍と戦いましたが、

この戦いにて、もともと万全ではなかった司馬師の病状が悪化します。

そしてこの反乱鎮圧後に間もなくして司馬師は死亡します。

 

その後、司馬昭がその後継者として魏の朝廷で大きな権力を握るようになります。

そして賈充も司馬昭の側近となっていきます。

諸葛誕の動きを探る賈充

司馬昭が朝廷の実権を握ると、

各地の軍事力を握る武将たちの動向が大きな問題になりました。

その中でも特に警戒されたのが、揚州方面で大きな軍事力を持っていた諸葛誕です。

 

司馬昭は賈充を諸葛誕のもとへ派遣しました。

表向きの目的だけでなく、諸葛誕の考えや反応を探ることも目的だったと記録は残されています。

ここで賈充は、かなり大胆な質問を諸葛誕に投げかけました。

天下の人々はみな禅譲を望んでいるが、あなたはどう思うのか?

 

これはつまり、

「魏から司馬氏へ皇位を譲ることについて、あなたはどう考えているのか?」

という意味です。

 

これに対して諸葛誕は激怒します。

諸葛誕は、「あなたは賈逵の息子ではないか。

代々魏から恩を受けている家なのに、どうして魏の社稷を他人に渡そうとするのか」

という趣旨の言葉を返しました。

 

さらに、

「もし洛陽で何かあれば、自分は死をもって魏に尽くす」

という態度を示したといいます。

 

賈充はこれを聞いて黙りました。

 

しかし洛陽へ戻ると、司馬昭に対して、

「諸葛誕は反乱を起こす可能性が高い」と報告しました。

そして、「今のうちに召還すれば小さな問題で済む。放置すれば後々大きな災いになる」と進言したのです。

 

その後、司馬昭が諸葛誕を司空として召還しようとすると、諸葛誕はついに反乱を起こします。

これが諸葛誕の乱です。

諸葛誕の乱を鎮圧する

諸葛誕は寿春を拠点として司馬昭に抵抗しました。

司馬昭は大軍を率いてこれを包囲します。この戦いで賈充も司馬昭に従軍しました。

 

賈充は、

「城を力攻めするのではなく、

深い堀と高い陣地を築いて包囲を続ければ、戦わずして勝つことができる」

という趣旨の進言をしています。

 

司馬昭はこの策を採用し、長期にわたる包囲の末、寿春は陥落します。

諸葛誕の反乱は鎮圧されたわけです。

 

この功績によって賈充は宣陽郷侯に進封され、さらに食邑を加増されました。

その後、廷尉に任命されます。

賈充は法律に詳しく、刑罰を扱う能力にも優れていたとされ、冤罪を正すことにも功績があったと正史『晋書』は記しています。

こうして賈充は、単なる司馬昭の側近ではなく、政治・法律の面でも重要な人物となっていきました。

曹髦(皇帝)殺害事件

賈充の名前を三国志の歴史に強烈に残した事件があります。

それが、魏の皇帝・曹髦そうぼうの殺害事件です。

 

甘露5年(260年)、魏の皇帝・曹髦は司馬昭の専横に強い不満を抱いていました。

曹髦は若い皇帝でしたが、司馬昭によって魏の皇帝としての権力を大きく制限されていました。

 

そしてついに曹髦は、

「司馬昭の心は、路人も皆知るところである」

という非常に有名な言葉を発し、司馬昭を討つ決意をします。

 

この言葉が、後世の「司馬昭之心、路人皆知」という故事として知られるようになります。

曹髦は王経らとともに宮中を出て、司馬昭の勢力と対峙しました。

 

しかし曹髦が率いていた兵力は、司馬昭の軍勢に比べれば非常に小規模でした。

賈充と成済

このとき司馬昭側で軍を率いて曹髦と対峙した人物が賈充でした。

曹髦は自ら剣を手にして戦おうとしたため、兵士たちは皇帝に手を出すことを恐れていました。

 

その場で成済が賈充に、

「この状況をどうすればよいでしょうか」

と尋ねたとされます。

 

ここで『漢晋春秋』に引用された記録では、

賈充が、「お前たちを養ってきたのは、まさに今日のためだ」という趣旨の言葉を述べたとされています。

そして成済が曹髦を刺し、皇帝は命を落としました。

さらに『晋書』賈充伝にも、賈充が成済に対して同様の言葉をかけ、成済が皇帝に向かって攻撃したことが記されています。

 

 

正史『三国志』では、司馬昭は曹髦の死を聞くと驚き、

「天下の人々は私を何と思うだろう」と嘆いたと記されています。

 

一方、裴松之が注として引く『漢晋春秋』『魏末伝』などには、

賈充が成済に殺害を命じたという、より踏み込んだ記述があります。

 

 

曹髦が殺害された後、司馬昭は魏の皇帝を殺害した責任を負うことになりました。

しかし、最終的には曹髦を実際に刺した成済に重大な責任が負わせられます。

その結果として、成済とその一族は処刑されました。

 

このため後世には、

「賈充や司馬昭が責任を成済一人に押しつけた」

という見方が強くなりました。

「曹髦殺害事件」のもう一つの逸話

賈充については、さらに興味深い逸話があります。

それは、賈充の母である柳氏に関する話です。

 

『晋書』賈充伝によれば、柳氏は古今の節義を重んじる人物だったとされます。

 

そして曹髦を殺害した成済について、

「不忠な人物だ」としてたびたび非難していたと伝えられています。

ところが、柳氏は「自分の息子・賈充が曹髦殺害に関わっていたことを知らなかった」と記しています。

つまり、「成済のような不忠の人物をなぜ許すのか」と周囲には聞こえるほど成済を非難していたものの、実はその事件の裏側に自分の息子がいたことを知らなかったわけです。

 

この逸話は非常に皮肉なものです。

 

ただし、ここは注意が必要です。

賈充の母が実際にどこまで事件の真相を知らなかったのか、

また賈充がどのような意図で隠していたのかまで、史料から断定することはできません。

 

したがって、「賈充は最後まで母親に真実を隠し通した」と断定するより、

「柳氏が賈充の関与を知らず、成済を不忠として非難していたという皮肉な逸話が残されている」とする方が正史を扱う記事としては適切です。

司馬炎の即位と晋の建国

景元4年(263年)、魏は蜀漢を滅ぼします。

しかし、その二年後の咸熙2年265年)、司馬昭が死去します。

その後を継いだのが息子の司馬炎です。

 

司馬炎は魏の皇帝・曹奐から禅譲を受け、晋王朝を建国しました。

こうして曹丕が建国した魏は滅亡します。

 

そして賈充は、司馬氏による新王朝建設を支えた中心人物の一人として、さらに高い地位へと昇っていきます。

晋が成立すると、賈充は晋の建国功臣として重く用いられました。

 

また、賈充は晋律の制定にも関わっています。

これは賈充の政治家としての重要な業績の一つです。

単に司馬氏のために働いた人物ではなく、新しく成立した晋王朝の法制度を整える仕事にも携わっていたのです。

呉討伐には反対した賈充

晋が成立すると、残る三国最後の国は呉だけとなりました。

当然、晋では呉を滅ぼして天下を統一しようという意見が強まります。

 

ところが、賈充はこれに反対しました。

賈充は、国内の事情や兵士・民衆の負担などを考慮し、呉への大規模な遠征を行うことに慎重だったのです。

 

一方、羊祜・杜預・張華らは呉討伐を主張しました。

特に羊祜は長年にわたって呉との戦いに備えていましたが、呉征伐が実現する前に亡くなります。

その後、司馬炎はついに呉征伐を決断します。

 

そして意外なことに、呉討伐軍の総司令官として任命されたのが、かつて反対していた賈充でした。

賈充は高齢であり、しかも自ら呉征伐に反対していたため、この人事には複雑な意味がありました。

実際、賈充は出征後も戦況を見て、呉討伐軍を撤退させるよう進言しています。

 

しかし司馬炎はこれを認めませんでした。

孫呉滅亡

咸寧6年(280年)、晋軍による呉征伐が本格化します。

杜預をはじめとする晋軍は六方面から呉へと進撃し、呉は劣勢に追いやられていきました。

そしてついに呉の皇帝孫皓が降伏します。

 

ここに後漢末から続いた三国時代の争乱は、事実上の終幕を迎えることになります。

この呉征伐の際に有名になったのが、「破竹の勢い」という故事です。

 

杜預は、竹を割るように最初の節を破れば、

その後は自然に次々と割れていくように、呉を討つ勢いは止めるべきではないという趣旨の発言をしたと伝えられています。

この言葉から、現在でも「破竹の勢い」という表現が使われています。

 

なお、賈充は最後まで呉征伐に慎重な立場でした。

ところが、呉が滅亡すると、司馬炎は賈充を責めるどころか大きく加増しました。

ただ賈充自身は自分の判断が間違っていたことを恥じ、処罰を願い出たとされています。

賈南風を皇太子妃に

晋が天下統一を果たした後も、賈充の地位は揺らぎませんでした。

そして賈充にとって、もう一つ大きな出来事が起こります。

娘の賈南風かなんぷうが、司馬炎の皇太子である司馬衷しばちゅうの妃となったのです。

後の晋の恵帝・司馬衷の皇后となる女性です。

 

これによって賈氏は、晋王朝の皇室と非常に強い血縁関係を持つことになりました。

賈充は政治家としての地位だけでなく、皇室の外戚としても大きな影響力を持つようになります。

 

しかし、賈充自身はその後まもなく亡くなります。

賈充死去

賈充は太康3年(282年)に66歳で亡くなりました。

司馬炎は賈充の死を非常に悲しみ、賈充には死後太宰が追贈され、「武(武公)」と諡されました。

また、晋の建国における功績を高く評価され、廟庭に配享されています。

 

つまり賈充は、

曹魏の重臣・賈逵の息子として生まれ、魏の官僚となり、

司馬氏の台頭を支え、晋の建国に貢献し、最終的には西晋の最高位級の功臣となった人物だったのです。

 

しかし、賈充の一族には悲劇が待っていました。

 

賈充が亡くなった後、娘の賈南風は司馬衷の皇后となります。

しかし司馬衷は政治能力に乏しく、実権を握った賈南風は激しい権力闘争を繰り広げることになります。

 

そして最終的には、賈南風を中心とする賈氏一族そのものが滅亡するという皮肉な結末を迎えます。

 

賈充が司馬氏の台頭を支え、その司馬氏の皇帝に娘を嫁がせることで一族の権勢を極限まで高めたにもかかわらず、

その一族が後に晋の宮廷内の権力闘争によって滅んでしまったのです。

これは、まさに歴史の皮肉と言えるでしょう。

賈充という人物をどう見るべきか

賈充は、三国時代の人物の中でも評価が非常に難しい人物です。

彼は曹魏の重臣・賈逵の息子として生まれ、魏の官僚として出世しました。

 

しかし、やがて司馬氏の側近となります。

そして毌丘倹・文欽の乱、諸葛誕の乱では司馬氏の側に立って戦いました。

さらに、曹髦が司馬昭を討とうとした事件では、賈充が曹髦と対峙する軍を率い、成済が曹髦を殺害するという最悪の結末を迎えます。

 

その後、司馬氏が魏から禅譲を受けて晋を建国すると、賈充はその中心的な功臣となりました。

そして賈充は法制度の整備にも関わり、晋王朝の政治機構を作るうえで重要な役割を果たしています。

 

そして呉討伐には反対しながらも、最終的には総司令官として出征を命じられました。

このように考えると、賈充は、「魏を裏切った悪臣」という一言だけでは説明できない人物です。

 

一方で、魏の皇帝である曹髦の死に深く関与したという事実は、

彼の生涯を考えるうえで避けて通ることのできない重大な出来事です。

魏から晋へと時代が移り変わる激動期において、賈充はその転換点のほぼすべてに立ち会いました。

 

  • 魏の終焉を象徴する曹髦殺害事件
  • 司馬氏による権力掌握
  • 晋の建国
  • 三国時代最後の呉の滅亡

これらの歴史的事件に深く関わった人物こそ、賈充だったのです。

 

そして賈充の死後、娘の賈南風が晋の皇后となり、

今度はその賈氏一族が権力闘争の渦中へと巻き込まれていきます。

 

こうして見ると、賈充の人生は、

「魏の臣下として生まれ、司馬氏の時代を作り、晋の繁栄を支えた一方、

その一族は晋の宮廷内の権力闘争によって滅びていった」という、まさに三国時代から西晋への時代の転換を象徴するような生涯だったと言えるでしょう。