今現在日本の飲食屋でも

デザートとして食べられる事が多い杏仁豆腐ですが、

 

もともと杏仁豆腐が生まれたのは、三国時代まで遡ります。

 

 

その杏仁豆腐を生み出したのが、

三国時代の名医であった董奉とうほうという人物ですが、

 

今回はそんな杏仁豆腐の生みの親である董奉について見ていこうと思います。

董奉(とうほう)

董奉は220年に生まれた人物で、

丁度晋によって呉が滅ぼされる280年まで生きた人物です。

 

三国時代の名医と言えば、

なんといっても「医聖」と呼ばれた華佗が最も有名ではありますが、

 

張仲景ちょうちゅうけいや華佗の弟子であった呉普や樊阿はんあといった名医は他にもいます。

「傷寒雑病論」を著し、医術の道を貫いた張仲景(張機)

華佗の二人の弟子(呉普&樊阿)

 

そんな名医の中の一人なのが董奉であり

普段は山中に住みながら、多くの難病の患者の治療を行ってあげたそうです。

 

董奉に治療を受けるべく訪れた患者は数知れず、

日夜を通して骨身を惜しまず、治療を行ってあげました。

 

 

ただ董奉の元を訪れる患者の多くが貧しかったのですが、

董奉は貧しい患者から治療費を受け取ることは一度もなかったそうです。

 

董奉にとってお金なんかより、

患者の病気が治ってくれる方がなによりの生き甲斐だったのでしょう。

 

ちなみに華佗・張仲景と並んで董奉の三人を、「建安の三名医」と呼ばれたりします。

華佗に治療を受けた事がある人達とその治療法

お金の代わりに患者から受け取ったもの

董奉は貧しい生活をしていた患者から一切のお金を頂くことはありませんでしたが、

董奉のお陰で病気が治った者はどうにかしてお礼がいたいと考えていました。

 

それでも頑なに患者から謝礼を受け取る事はありませんでした。

 

 

なんとかお礼をしたいと思う者が後を絶えず、

そこで董奉は、杏(あんず)の苗木を庭に植えてくれるようにお願いします。

 

これまで治療費を払う事もなく、なんのお礼もできなかった者達は、

たった杏の木を植えるだけのことでお礼ができると聞いて喜んだそうです。

 

 

ちなみにこの時に董奉がお願いしたことは、

 

重病の人が治った場合は杏の苗木を5株、

軽病の人が治った場合は杏の苗木を1株だけだったといいます。

成長した杏の木

患者達によって植えられた多くの苗木は、

数年の月日が経つにつれ、杏の実をつける立派な林に成長します。

 

 

董奉は、その杏の実を自分だけのものとせず、

 

「もしも杏の実が欲しい者がいれば、

同じだけの量の穀物と勝手に交換して持って行っていいよ。

 

換わりの穀物は私の倉庫においておいてくれればいいから!」

と書いた立札を杏の木の傍に立てます。

 

 

その立札を見た者達は、喜んで杏と穀物を自由に交換したそうです。

 

つまり董奉は人を救った謝礼から、

将来再び人の為になるものを産み出したことになるわけです。

杏の効能

 

董奉が杏の木を植えることをお願いしたのにはきちんと理由があり、

杏の種には、漢方としての働きがあったのです。

 

そして杏の種には、肺や腸の働きを良くし、

咳を抑えたり、喉の痛みを和らげてくれる効能があります。

 

 

今でこそ杏の種には、βカロテンという栄養素が沢山入っており、

咳を抑えたり、喉の痛みを和らげてくれることが分かっていますが、

 

この当時、βカロテンという言葉は勿論ありませんでした。

 

 

しかし董奉は、杏の種にそういった効能があることを、

なんとなくでも知っていたのでしょうね。

 

そして今の時代でも、杏の種は漢方の一つとして使われ続けています。

杏仁豆腐を産み出す

董奉が杏の種から作り出した漢方薬は、

多くの人達の病気を治したりしたことから一般的に広まりだします。

 

しかし杏の種を潰したものを漢方薬として飲むわけですけど、

これがあまりにも苦い事が悩みの種でもありました。

 

 

そこである者が、どうにかして美味しくできないものか董奉に尋ねると、

杏の種をつぶしたものに牛乳や糖を加えて甘くしたらどうかとの助言を貰います。

 

これが杏仁豆腐の始まりであり、

漢方薬が食べやすい物にかわったことで爆発的に人々に受け入れられました。

 

甘く食べやすくなったことで、

その後、中国全土に一気に広まっていったことは言うまでもありません。

杏の実を盗んだ盗人に関する伝説

杏の実を善意で提供する董奉に対して、

ほとんどの者達は感謝して杏の実と穀物を交換していましたが、

 

中には勝手に交換できるという事から、

穀物と交換することなく、沢山の杏の実を盗んだ者がいました。

 

しかしその盗人は、虎に襲われ死んでしまいます。

 

 

杏の実を盗んで死んでしまったことを知った盗人の家族は、

董奉に深く謝罪して、杏の実を返却。

 

董奉はその家族に同情し、虎に噛み殺された盗人を生き返らせてあげたそうです。

 

本当に人を生き返らせるということはできるはずはないでしょうが、

董奉は仙人としての伝説があり、そういう話が残っています。

董奉と士燮の逸話

晋の天下統一後に生まれた葛洪かつこうが書いた「神仙伝」には、

董奉と士燮についての逸話が残っています。

 

士燮ししょうは交州を実質的に治めていた人物で、士燮は実際226年まで生き、

90歳まで長生きした人物でもあるんですが、その士燮がある時病死してしまいます。

 

 

士燮が死んで3日目、

仙人だった董奉が士燮の前に現れて薬を水と一緒に飲ませ、

 

死んでいる士燮の頭を左右に揺さぶりました。

 

 

それから少しすると、董奉の体に生気が戻り、

びっくりすることに士燮は目を開けて、手を動かし始めます。

 

12時間経過すると、

足が動かせるようになって立てるようにまでなったといいます。

 

そして士燮が生き返って4日が経つと、完全に全快。

その後士燮は天寿を全うしたそうです。

 

 

あくまで「神仙伝」では、

董奉を医者としてより仙人的な立場として描いています。

現在でも使われ続ける董奉の代名詞「杏林」


董奉は生涯を通じ、人の為に尽くし続けました。

 

そして杏の木の逸話を含め、

董奉を名医の代名詞として「杏林きょうりん」と呼ぶようになったといいます。

 

 

現在でも杏林大学という医学の学校があったり、

杏林という製薬会社があったりしますが、

 

全て董奉の「杏林」からとられているのは言うまでもありません。