曹操が官渡の戦いで袁紹を打ち破った事で、
曹操が初めて袁紹に対して優位的な立場になるわけですが、
官渡の戦いに勝利したとはいえ、
曹操は袁紹が死ぬまで警戒を弱めることはありませんでした。
だからこそ、官渡の戦いの翌年である201年に、
倉亭という地を守備していた袁紹軍が曹操軍に破られることがあったものの、
202年5月に袁紹が亡くなるまで、
曹操がまともに勝負をしかけることは一度もありませんでした。
実際官渡の戦いで敗れたとはいえ、
袁紹はその後に軍勢を整え直しており、まだまだ強大な勢力を誇っており、
袁家が曹操に最終的に滅ぼされた原因は、
袁紹が残した遺児である袁譚・袁煕・袁尚らの責任と言っても過言ではありません。
目次
袁紹の子供達
袁紹には次の4人の子供がいました。
- 袁譚(長男)
- 袁煕(次男)
- 袁尚(三男)
- 袁買(四男)
ただ四男の袁買に関しては大きく二つの説があります。
- 袁紹と側室の子
- 袁譚もしくは袁煕の子
実際はどちらの説が正しいのかは未だに不明のままですが、
袁紹が亡くなった後に袁家滅亡の原因を作った人物は袁譚・袁煕・袁尚の三人になります。
三人とも袁紹と正室であった劉氏との間に生まれた子であり、
特に長男の袁譚と三男の袁尚の兄弟争いによって滅亡を早めてしまいます。
ちなみに三人と書きましたが、
次男の袁煕に関しては、劉氏との子であるという証拠はなく、
側室との間の子であったという話もあるので明確な所は分かっていません。
長男:袁譚(えんたん)
袁譚は袁紹と劉氏との間に生まれた子ですが、
非常に優しい性格でした。
長男だったこともあり、
普通ならば袁紹の後継者になるのが当然の立場でしたが、
袁紹は劉氏との間に袁尚が生まれると、
袁紹と劉氏は袁譚よりも美男子であった袁尚を後継者にしたいと考え、
袁譚は後継者候補から外され、
袁紹の兄であった袁基の後継者にさせられる形で、青州に送られてしまいます。
この時、この行為が将来の袁家の命運にかかわってくると思って、
真剣に諫めたのが沮授でしたが、この言葉が袁紹に聞き入られる事はありませんでした。
青州に送られた袁譚ですが、
青州を治めていた孔融を打ち破るなど功績をあげていきます。
青州を拠点に、袁譚は優れた者達を多く登用したりしますが、
自分の事しか考えない佞臣の言葉に耳を傾ける事も多かったといいます。
そんな袁譚ですが、官渡の戦いが起こった際には、
袁紹軍の一員として参加もしています。
次男:袁煕(えんき)
袁煕は袁譚・袁尚に比べると、
比較的に記録が少ない人物になります。
袁尚が後継者の有力候補になり、兄である袁譚が青州に飛ばされますが、
公孫瓚を滅ぼした199年に、袁煕は幽州刺史に任じられています。
袁紹からしたら、後継者争いにならないように、
全面的に袁尚を推した形だったのでしょう。
また袁煕の妻は、傾国の美女と呼ばれた甄氏であり、
鄴が陥落した際に、曹丕に娶られています。
ただこの時既に甄氏は袁煕の子をはらんでおり、
曹丕の後を継いで皇帝となった曹叡の実の父親は袁煕ではないかという説もあります。
もしもそうだった場合、袁家が曹操によって滅ぼされはしましたが、
最終的に曹家を袁家が乗っ取ったことになるんですけどね。
三男:袁尚(えんしょう)
袁紹と劉氏の間に生まれた子で、袁紹の三男にあたりますが、
美男子であったことから袁紹や劉氏に後継者の有力候補にあがります。
ちなみに田豊が曹操が呂布と争っている間に許昌を襲撃し、
献帝をこちら側に奪うように言ったことがありましたが、
袁紹の子供が病気だった為に、袁紹は田豊の案は取り下げてしまい、
大きなチャンスを逃してしまったという話があります。
その時の袁紹の子供とは、袁尚のことになります。
袁紹の死
袁紹は長男であった袁譚を差し置いて、
三男だった袁尚を後継者最有力候補にしつつも、
202年5月に亡くなるまで、はっきりと後継者を決める事がありませんでした。
これが袁紹の死後に袁家が真っ二つに分裂してしまう原因になります。
まず袁紹の主だった臣下の郭図・辛評は袁譚を後継者に推し、
審配・逢紀は三男の袁尚を後継者に推します。
袁家が分裂している事を知った曹操は、
この事態を見過ごすわけはなく、華北へ侵攻を開始します。
この時に袁譚からの援軍要請を袁尚が断ったことで、
二人の関係はますます悪化していきました。
しかし、曹操が華北へ侵攻してくることは袁尚にとっても良い事ではなかった為、
結局袁譚に加勢し、協力してなんとか曹操軍を追い払うことに成功。
しかし、郭図や辛評が袁譚に袁尚の本拠地であった鄴を攻めるように勧め、
これに袁譚が応じる形で攻撃。
これにより二人は完全に分裂してしまいます。
そして袁譚から攻撃を仕掛けたはいいものの、
戦局は袁尚軍に有意に働いていき、袁譚は追い込まれていきます。
協力関係を敷いた袁譚と曹操
袁譚はこれ以上は袁尚の攻撃を防ぎきることが厳しいと判断し、
郭図の進言もあって、これまで敵であった曹操と同盟を結ぶことを決意します。
袁譚から同盟の誘いがきた曹操は、
チャンスとばかりに袁譚と同盟を結んで、袁尚を追い詰めていきました。
曹操からしてみれば、
袁家を滅ぼすきっかけが舞い込んできたことになりますね。
ちなみに次男であった袁煕は、
袁尚が助けを求めた事で自然と袁尚側として戦うことになりますが、
曹操と手を組んだ袁譚軍を推させることができず、
共に遼西郡へ落ち延びていきました。
袁譚の死
袁煕・袁尚を遼東半島へ追い払った袁譚でしたが、
そのまま袁尚の領地を吸収して華北に君臨するかと思いきや、
そんなことを許す曹操でもありませんでした。
袁尚の領地の多くを支配下に置き、
袁尚の敗残兵を吸収した袁譚でしたが、
それを盟約違反だといいがかりをつけた曹操が、袁譚への攻撃を開始します。
これにより南皮へ追い込まれた袁譚ですが、
曹操軍の猛攻を防げないと判断し、最終的に逃亡する事を決意。
しかし逃亡の最中に落馬し、最終的に曹純によって討ち取られています。
袁紹が死んで3年後にあたる205年のことでした。
袁譚の最後の言葉は、曹純に対して、
「私ならお前に富貴な生活を送らせてあげる事ができるぞ!」であったそうです。
しかし曹純は聞く耳を持たず、そのまま袁譚を斬り捨てています。
袁尚・袁煕の死による袁家滅亡
袁尚・袁煕を遼東半島へ追い払い、袁譚を駆逐したことで、
曹操は袁紹が支配していた華北を支配下に置くことに成功します。
遼西郡へ追い払われ、機会を伺っていた袁尚・袁煕でしたが、
207年に侵攻してきた曹操軍によって敗北。
行く宛を失った袁尚・袁煕は、
遼東半島(遼東郡)を支配下に置く公孫康の元へ落ち延びる事を決意しますが、
曹操を恐れた公孫康によって二人は討ち取られ、
首級を曹操に送られています。
袁買の最後
ちなみに袁紹の四男とも袁尚・袁煕の子供とも言われている袁買も、
この逃亡には付き従っていたといいます。
しかし最終的に袁尚・袁煕ともども処刑されたと言われています。
このあたりのことを考えると、袁買が袁紹の子でなかったならば、
袁煕と共に行動したことからも袁煕の子であった可能性が高いと思います。
もし袁譚の子であったならば、
袁譚が袁尚・袁煕と戦っていた際に、袁譚側として戦っていただろうし、
わざわざ袁尚・袁煕と共に逃亡を繰り広げる意味もないでしょう。
袁尚・袁煕の最後
蒼天航路(19巻10P)より画像引用
袁尚の最後の言葉は、
「寒いから筵ぐらい下に引いてくれ!」だったそうです。
それに対して袁煕は、
「今から処刑されるのに、筵なんて必要ないだろう」と袁煕を諭したのだとか・・・