袁紹&袁譚時代の辛毗

辛毗兄の辛評と共に袁紹に仕官しています。

 

袁紹が官渡の戦いで曹操に敗れ、その後袁紹がこの世を去ると、

辛評・辛毗は袁紹の長男であった袁譚に仕えるのでした。

 

 

しかし袁譚と袁尚の間で後継者争いが勃発すると、

 

父の仇でもあった曹操と同盟を組むことに決意し、

その使者として辛毗が派遣されます。

 

 

曹操は荊州の劉表を滅ぼそうとしていたのでこの提案を喜んだものの、

 

曹操が心変わりをし、

袁譚と袁尚が共倒れしてくれた方が都合が良いと考えたのです。

 

 

 

しかしこのまま引くわけにもいかない辛毗は、

 

郭嘉の協力を仰いだりしながら、

なんとか袁譚と曹操の間で同盟締結に成功します。

 

 

ただ辛毗自身は、後継者争いで弱体化していた袁家に愛想を尽かしており、

曹操にこの騒動につけ込んで袁家を滅ぼすべきだと言ったそうです。

 

これで曹操は袁譚ととりあえず同盟を結ぶことに成功したというのがことの真相ですね。

 

 

そして曹操・袁譚連合軍は、

袁紹の本拠地であった鄴(ぎょう)の攻略へ乗り出します。

 

その時、鄴を守っていた審配(しんぱい)は、

辛評・辛毗を裏切り者として、辛評の家族を皆殺しにしてしまいます。

 

 

その後、鄴が陥落したことで審配は捕らえられ、

兄の家族が殺された事で恨みを抱いていた辛毗の願いもあって処刑されてしまうのでした。

 

袁尚討伐の後は、袁譚らを滅ぼし、曹操が冀州を治めることになっていきます。

曹操&曹丕時代の辛毗

辛毗が曹操に降ってからというもの、

曹操の子である曹丕と辛毗は非常に仲が良い関係を築いていきます。

 

曹丕が太子に任命された時には、

曹丕は嬉しさのあまりに辛毗に抱きついたという逸話も・・・

 

 

そして曹操がこの世を去ると、

曹丕が跡を継いで「魏」を建国するわけですが、

 

ある時に曹丕が、

冀州の十万の民を河南に移住させることを計画した事がありました。

 

 

しかし丁度その時、イナゴによる飢饉が起きていた為に、

多くの臣下が反対!!

 

曹丕はあまりに反対意見が多かったことで不機嫌になっており、

曹丕に誰も進言する事ができずに・・・

 

 

そんな中でも辛毗は遠慮することもなく、

 

「今は時期的に良くないから止めるべきだ」

と何度も何度も曹丕に忠告したようです。

 

 

曹丕は辛毗が何度もしつこいので、

 

「お前と話すことはない、お前の言葉は厳しすぎる」と言いますが、

辛毗はそれでも忠告を止めることはなかったのでした。

 

最終的に曹丕も半ば根負けしたような感じで、

辛毗の意見を一部取り入れる形で、半数の五万人の民のみ移動させたようです。

 

 

 

他にも曹丕は狩りを非常に好んでよく出かけていたのですが、

そんな曹丕に対して辛毗は次のように言ったという逸話も残っていたりします。

 

「狩りを楽しんでいるのは曹丕様だけで、

臣下は大変なだけですよ」と・・・

 

 

そう言われた曹丕のその後ですが、

狩りに出かける事がめっぽう減っていったといいますから、

 

効果覿面だったわけですね。

 

 

辛毗と曹丕の逸話は他にも沢山あり、

今度の逸話は曹丕が呉へ攻め込もうとした際の話です。

 

 

この時には、

「まだ呉を討伐するのは早すぎます。

今は国力の充実に励むべきです」と諫めたりしていますね。

 

 

これを聞いた曹丕は、

「子孫の為に、敵を残しておくのか」と反論して出兵しますが、

 

結局辛毗の言葉が頭を過り、戦いを取りやめたようです。

 

 

なんか呉でいう孫権・張昭の関係に少し似たところがありますよね。

曹丕 -漢を滅ぼし、魏を建国した初代皇帝-

曹叡時代の辛毗

曹丕がこの世を去り、曹叡の時代になると、

曹叡の信頼のあった劉放・孫資が力を持つようになります。

 

周りが曹叡から信頼が厚かった二人に取り入ろうとするものが多い中、

辛毗は取り入ることをしませんでした。

 

 

また曹叡が造営を盛んに行いはじめると、

辛毗は曹叡を強く諫めますが、曹叡が耳を傾けることはなく・・・

 

 

諸葛亮との戦いで張郃が討たれた際には、

曹叡が悲しみに暮れることがあった際にも次のように諫めたりしていますね。

 

「他の家臣を不安にさせるので、

弱気な顔を見せるべきではない!」と・・・

曹叡(甄氏の息子)の出生に隠された秘密/父親は曹丕or袁煕!?

五丈原に鉞を引っ提げて

234年に諸葛亮が五丈原に侵攻してくると、

司馬懿が持久戦の構えで諸葛亮と対峙していましたが、

 

将兵の出撃を求める声が後を絶たず、

司馬懿自身も将兵の制御ができなくなってきた時がありました。

 

 

この時に曹叡は辛毗に命じて出撃しないように使者として遣わし、

辛毗は使者の役目をきっちりと果たしたといいます。

 

 

諸葛亮が司馬懿が挑発に乗ってこないことを不思議に思い、

 

間者を忍び込ませたところ、

「鉞(まさかり)を手にした老人が、

兵士の前に立ちはだかって出陣させないようにしている」と報告を受けます。

 

諸葛亮はそれを聞いて「辛毗殿か・・・」と嘆いて、

司馬懿を誘い出すことが無理だと悟ったといいます。

 

 

諸葛亮はそのまま陣中で没してしまい、蜀の軍勢は退却することになるのですが、

辛毗もまた都に戻ってからほどなくして亡くなっていますね。

 

 

そんな辛毗を陳寿は、

「剛直公正で自身の利害で動く事はなく、

高貴な風格をまとっている人物であった」と高く評価していますね。