関羽死亡の戦犯として、
糜芳同様に扱われるのが今回紹介する傅士仁になります。
関羽以外の誰かを戦犯というなら
糜芳というよりも高い確率で傅士仁が挙げられますが、
実際は完全に関羽が戦犯だと思うのが私の意見になりますね。
糜芳と傅士仁は関羽の犠牲者になった感じがどうしても否めません。
これは当時荊州の州の事務を一任されていた潘濬に対しても、
全く同様の事が言えることですが・・・
傅士仁/士仁(ふしじん)
傅士仁の名が初めて三国志に登場するのは、
関羽が樊城攻めを行った時期になります。
それまで傅士仁がどういう人生を歩んできたのかは完全に不明ですが、
いきなり名前が登場したかと思えば、
呉に寝返った挙句に、糜芳の寝返りのきっかけを与えた人物というから、
蜀側の立場からすると、裏切り者以外の何者でもない人物になりますね。
ただ傅士仁の出身はきちんと現在まで伝わっており、
幽州広陽郡だという事が分かっています。
幽州と言えば、簡雍・関羽・張飛同様に、
劉備の最古参の一人である可能性がある人物である可能性が出てきたりします。
実際に関羽が荊州を統括している中で、
関羽の樊城戦では徐州時代からの古参である糜芳が江陵の守備を任されていますし、
その近場の重要拠点である公安の守備を任されたのが傅士仁であることからも、
信用できる古参に劉備が任せていたと考えると自然ですからね。
「傅士仁説」or「士仁説」
私は傅士仁と名前を統一して記載していますが、
実際の名前は「士仁」とも言われることもあったりします。
傅士仁という名前が登場するのは「蜀志」関羽伝であり、
「三国志演義」でもこの名前が継承されています。
しかし「呉志」呂蒙伝には士仁の名前で登場したりしていますし、
蜀の人物についての記録が残されている「季漢輔臣賛」でも、
裏切者の一人として「士仁」として記載が残されています。
「傅士仁」はあくまで陳寿の誤記で、「士仁」が正しいという人がいますが、
はっきりいってどちらが正しいかは不明です。
実際に「傅士」が姓で、
「仁」が名であったとしても別に不思議な事でもありません。
「夏侯」「諸葛」「司馬」「毌丘」「鮮于」「鍾離」など二文字の姓なんてよくあります。
結局のところどちらが正しいかは、今後新たな資料が出てきたりしない限りは、
どんなに議論されても結論が出る事はないでしょう。
後世の人達があくまで推測しているだけの話です。
そして私の場合は傅士仁で名前は統一していきたいと思っています。
荊州の情勢
当時の荊州は三つ巴になっており、
魏・呉・蜀での覇権争いが激化していた場所であり、
関羽は曹仁が守る樊城へ侵攻を開始します。
そして襄陽・樊城を攻略できた暁には、
許昌・洛陽と主要都市への侵攻を考えていたと思われます。
またこの時期は西側は漢中、
東側は合肥・濡須と戦線が拡大していた時期であり、
防衛上の問題から、
「襄陽よりも樊城に重きを置いていた」と思われます。
実際に213年に孫権討伐の為に曹操に付き従うまでは、
楽進が襄陽に滞在しており、「関羽と激突した」という話も残っています。
その点を考えても213年あたりまでは、中心都市が襄陽だったのは間違いないでしょう。
しかし上での述べたように戦線の拡大によって、
漢水を背とした襄陽よりも、漢水を境にできる樊城に重きが置かれた時期であり、
直前に宛城で起きた侯音の乱を鎮圧した曹仁が、
そのまま関羽対策の一環として襄陽ではなく、樊城へと入城したのだと思います。
荊州の後方を守る糜芳・傅士仁と関羽の確執
関羽が樊城攻撃を開始した際に、糜芳と傅士仁は、
兵調達や食糧輸送等の後方支援を担当していました。
しかし糜芳は城内の失火によって、軍需物資や食料が焼けてしまったことがありました。
これを知らせ聞いた関羽は激怒しており、
「戦いが終わった後に処罰するから覚悟しておけ!」
と伝えたといいます。
ただこの言葉をかけられたのは糜芳だけではなく、
傅士仁も似たような言葉をかけられていたとも言われていますね。
また常日頃から強い口調で威圧する関羽に対して、
傅士仁・糜芳と関羽の間での確執が非常に大きくなっていたのでした。
だからこそ関羽からの援軍要請があった際も、
最低限のみの援軍だけを送ったりしていたようです。
そもそもの話として、実際に糜芳・傅士仁の手配できる以上の要求を、
関羽がしていた可能性が高いと思っています。
二人は樊城での戦いで良くない結果に終わったとしても、
魏と呉に対応するべく最低限の軍需物資は保持しておく必要はあったでしょうし・・・
戦いは攻め込む部隊だけの戦いではありません。
兵站確保や後方からの軍需物資を送る役割の者達がいてこそ成り立ちます。
これは劉備が漢中での戦いを繰り広げていた時も同様です。
成都など後方では諸葛亮や楊洪など後方から、
劉備を援護してくれた者達のお陰で漢中攻略に成功しています。
にも関わらず、関羽は糜芳・傅士仁との関係を悪くさせただけでなく、
荊州の内政を統括していた潘濬とも良好な関係を築こうともしていませんし、
このあたりの配慮を関羽がきちんとできていれば、また違った未来があったかもしれませんね。
呂蒙の策略
孫権は表向きこそ劉備と同盟関係をきずいていましたが、
関羽があまりにも傲慢だったこともあり、孫権は曹操と結びます。
呂蒙は関羽を油断させるべく、病気と偽って建業へと戻り、
まだ名がそれほどしれわたっていなかったものの、
優秀な人材であった陸遜を指揮官に推薦しています。
孫権は呂蒙の言葉を聞き入れて、
陸遜を偏将軍・右部督として呂蒙後の指揮を命じています。
陸遜はへりくだった手紙を関羽に対して送ると、関羽は完全に油断してしまい、
江陵・公安に残していた兵を、樊城攻略の為に全力で要求してきます。
関羽の目には襄陽・樊城しかうつっておらず、完全に呉は眼中からなくなっていたのです。
そこをついた形で公安を守っていた傅士仁のもとへ、
呂蒙・陸遜の軍勢が押し寄せてくることになったわけです。
そして傅士仁は兵力的な問題と関羽との確執などから、簡単に降伏する流れとなったのでした。
虞翻の書簡により降伏を決意
横山光輝三国志(41巻125P)より画像引用
関羽の命により樊城攻撃に兵士が駆り出された事もあり、
公安の兵士は手薄になっており、そこにつけこんできたのが虞翻でした。
虞翻は孫権の使者として傅士仁を訪ねるわけですが、
虞翻と傅士仁とは旧知の仲であったこともあり、
虞翻は説得できる自信がありました。
しかし傅士仁は虞翻に会おうとせず、防御態勢を敷いています。
そこで虞翻は傅士仁に書簡を送ったのですが、
「お主は我々だけでなく、
味方であるはずの関羽からも脅しをかけられておる。
本当に大変な状況だという事が理解できる。」
といった内容が書かれており、
傅士仁の現在の心境を言い当てており、
その心境を優しく察してくれた虞翻の手紙を見て涙を流し、
これがきっかけとなって降伏を決意したながれになっていますね。
その後、同じく後方の守備を任されていた糜芳も、傅士仁が投降したことを知ると観念して降伏。
傅士仁の裏切りが、糜芳の裏切りを招き、
結果として関羽は呉に捕らえらえて処刑されてしまいます。
その後の傅士仁
その後の傅士仁は、どうなったか全く分かりません。
なぜなら糜芳と虞翻のKY発言の逸話が残っているのに対し、
傅士仁の投降後の記録は全く残っていないからです。
一言で言ってしまえば、
関羽を裏切る為だけに登場した人物だと言えると思います。
呉の武将である馬忠と、立場的には似たような感じかもしれません。
馬忠も関羽を捕らえた人物であるにもかかわらず、
「馬忠が関羽を捕縛した」という記載しか正史に書かれてないからですね。
良い意味でも悪い意味でも関羽の死に携われたからこそ、
傅士仁も馬忠もかろうじて正史に名を残すことができたのだと思います。