曹操を高く評価した人物にまず名前があがるのが橋玄ですが、
実際のところをいうと、
橋玄より許劭(許子将)の方が有名だったりします。
普通に橋玄であったり、許劭であったりを知らないって人でも、
「治世の能臣、乱世の奸雄」という言葉は聞いたことある人は多いかもしれませんね。
この事については「魏志」武帝紀に
「子治世之能臣亂世之奸雄」というふうにもきちんと記載が残されています。
この有名な言葉は、許劭が曹操を評価した言葉だったりします。
ただ「世説新語」には、上で少し名前が出た橋玄が、曹操に対して、
「治世の能臣、乱世の奸雄」と似たように語った次の言葉が残されていたりもしますね。
「曹操殿は乱世の英雄である。ただ治世の姦賊でもある。」
目次
許劭(-子将- 許子将)
横山光輝三国志(4巻143P)より画像引用
許劭は許子将とも言われたりするんですが、
何故そう呼ばれるのかというと、
「姓」を許、「名」を劭、「字」を子将と言うからですね。
まぁこのあたりは、劉備のことを劉玄徳、曹操のことを曹孟徳と呼んだりするのと同じです。
許劭は人物批評家として、曹操に出会う前から有名な人物でした。
ちなみに許劭は益州で劉璋・劉備に仕えた許靖とは従兄弟関係になります。
また許劭の一族の許敬・許訓・許相の三人は、
三公まで昇り詰めていることからも、名門の一族であったと言えると思います。
他にも譙周が著した「仇国論」で登場している陳祗も、
許靖の兄の孫にあたるので、許劭の一族であった一人という事になりますね。
許劭はKOEIの三国志でもよく登場している人物でもありますし、
KOEIの三国志から入った人からすると、仙人のような立ち位置にも見えたりで、
「こいつは何者なのだろう」みたいに思った人もいるかもしれませんね。
許劭・許靖が行った月旦評(げったんひょう)
「月旦評」は故事として現在まで残っている言葉ではありますが、
これはもともと許劭と許靖の二人が、
「毎月1日に人物の品定めを行って評価していたこと」
にちなんで生まれた言葉になります。
許劭・許靖が開く月旦評には、各地の有力者も注目しており、
この月旦評で高く評価された人物は必ずと言っていい程に出世するといい、
低い評価を受けた人物は家が没落するほどだったといいます。
橋玄からの紹介を受けてやってきた曹操は、
この月旦評で高く評価され、曹操の名声は非常に高まったというのは我々の知るところですね。
つまりこの時に「治世の能臣、乱世の奸雄」と評価されたわけです。
許劭の評価の基準
許劭は人を評価する際にどういった点に重きを置いて評価していたかというと、
儒教的観点に沿って評価をしていたようです。
ただそれだけではなく、その人物の才能もそれに加味されています。
逆に言うと比類なき才能を持っていたとしても、
儒教的精神からかけ離れた人物は良い評価を得られないということです。
実際、曹操を評価した許劭ですが、
曹騰の孫にあたる曹操を宦官の孫として見ていたようで、
もともとはそんな曹操を評価したくなかったともいわれています。
ただ橋玄からの紹介があったこともあり、
許劭は断りきれず、曹操を評価したような話もあったするのは余談です。
曹操は儒教的精神からは少しずれた人間であり、
後に孔子の子孫であった孔融と馬が合わずに対立した挙句に処刑したり、
曹操を懸命に支えた荀彧ですら死に追いやったこともありました。
本来ならば低い評価を与えられてもおかしくなかったはずですが、
橋玄の立場もあってか、実際はそうではありませんでした。
しかし「乱世の奸雄」と曹操を評価したのには、
許劭なりの皮肉も込めての言葉だったのかもしれません。
しかし許劭から評価されるだけでも価値があったこの時代、
曹操の名が広く知れ渡るきっかけになったのだけは間違いないでしょう。
許劭をおそれた袁紹
名門の出身であった袁紹は、派手な服装を好んで着ることも多々あったようです。
しかし許劭と同じ豫州汝南郡出身であった袁紹は、
そのことについて許劭から批判されてしまうかもしれないとおそれてしまい、
人物評価を受ける事を避けただけでなく、
許劭からの評価をおそれて、派手な服装を着用しなくなったといいます。
とどのつまり「この袁紹の逸話は、
許劭の人物評価される事の影響力が大きかった」
という事を表す一つの逸話でしょうね。
許劭の最期
許劭に評価を受けた曹操をはじめ、
荊州刺史として黄巾賊討伐にも参加した徐璆や三公(太尉)の楊彪からも誘いを受けた事がありましたが、
許劭は全ての誘いを断って仕官する事はありませんでした。
その後に世の中が乱れに乱れていくと、
災難が及ぶことをおそれた許劭は江南へと避難しています。
それまでは一途に仕官を断っていた許劭ですが、
揚州刺史でもあった劉繇に世話になることはあったようです。
しかし孫策が江東制覇に乗り出すと、
劉繇は敗れて落ち延びる事になってしまいます。
それにより没落していった劉繇でしたが、
許劭は少しでも世話になった劉繇を見捨てる事はできず、
義理を通して劉繇に従って共に落ち延びました。
しかし許劭は落ち延びた先である豫洲で、病の為に四十六歳で亡くなっています。
興平二年(195年)の事でした。
ただ劉繇もそれから間もない建安二年(197年)に亡くなっています。
許劭が何故に劉繇に義理を通して従ったかは不明ですが、
おそらく儒教的精神をベースに長らく人を評価してきたからこそ、
世話になった劉繇が落ち目になったからと簡単に見捨ててしまう事は、
自分の評価を下げる事にもなると考えたのかもしれませんね。
許劭が評価した人物(劉曄)
許劭評価した人物の中に劉曄がいましたが、許劭は劉曄を高く評価した事でも知られています。
後に劉曄は曹家に仕えた重臣の一人に数えられるわけですが、
後漢を興した光武帝(劉秀)の血をきちんと受け継いだ人物でもあります。
劉備の血筋があやふやすぎるのに対して、
劉曄はきちんとした系譜を持っている事になりますね。
そんな劉曄ですが、曹操・曹丕・曹叡に仕え、
魏になくてはならない人物の一人となっています。
許劭はそんな劉曄がまだ世に出る前に、
「今の時世にあった君主を補佐できる才能に長けている」
と高い評価を与えたわけです。
許劭が評価した人物(荀靖・荀爽)
荀彧の叔父にあたる荀靖・荀爽に対しては、
「二人とも玉を持っており、荀靖殿の玉は外に一片のくもりもなく輝いているし、
一方の荀爽殿の玉は内から輝くものが見える」と評価を下しています。
許劭がこの二人を批評した際には、
もともと二人のうちどちらが優れているのかという質問が投げかけられており、
それに対する答えが上であり、
どちらにとっても当たり障りのない批評のようにも思えますね。
ちなみに荀靖・荀爽の二人は荀淑の子であり、
荀淑には8人の息子がいたんですが、8人とも優れた人物だったことから八龍なんて呼ばれたりしています。
※荀靖=三男、荀爽=六男
二人のその後はというと、荀靖は後漢に仕えるというわけでもなく、
儒教の道を志し、生涯に幕を下ろしています。
一方の荀爽はというと九卿を経て、三公である司空まで昇り詰めています。
また董卓の暴政を終わりにするために、董卓暗殺を王允と計画した人物でもあるのですが、
その最中に病の為にこの世を去ってしまっています。
許劭が評価した人物(樊子昭・虞永賢・李淑才・郭子瑜・楊孝祖・和陽士)
「魏書」和洽伝には樊子昭・虞永賢・李淑才・郭子瑜・楊孝祖・和陽士など
多くの人物がまとめて記載されています。
劉曄や荀靖・荀爽の話は「魏書」劉曄伝・荀彧伝に記載されているのみです。
まぁ有名な人物を一つの伝の中に登場されていることを考えても、
あまり有名でない後者はまとめて記載するだけに至ったのかもしれませんけど・・・
このあたりは「三国志」の著者である陳寿の匙加減によるところでしょう。
- 樊子昭/頭巾を売る商売をしていた者でしたが許劭が見出す
- 虞永賢/牧場の家畜を世話する子供だった虞永賢を見出す
- 李淑才/田舎に住んでいた李淑才を見出す
- 郭子瑜/馬を世話していた役人であった郭子瑜を見出す
- 楊孝祖/楊孝祖を見出す
- 和陽士/和陽士を見出す
内容はかなり簡略化されていますし、
ほとんどが三国志の世界では無名に近いような人物になってしまっています。
最後に・・・
許劭は人物批評家として非常に有名な人物でもあったからこそ、
橋玄は曹操を許劭に紹介したわけですし、
紹介された曹操も、許劭に評価してくれたことを非常に喜んだわけです。
またあまりに影響力があったからこそ、
名家出身であった袁紹が許劭から評価されることをおそれたのでしょう。
良い意味でも悪い意味でも影響力が大きかったのです。
また劉繇が太史慈を重く用いず、敵の偵察する程度の仕事しか任せなかったのも、
実を言うと太史慈のような者を重く用いたとすると、
「許劭によって自分自身が低い評価を与えられるのではないか!?」
と評価されるのをおそれた為だとも言われています。
実際太史慈は、親不孝を繰り返してきたような息子ですし、
儒教の道から全力で外れていたことを考えると、劉繇が気にするというのも当然かなと・・・
ただそんな許劭ですが、
従兄弟であった許靖と共に月旦評を開きはしていたものの、
許靖の事が好きでなく、許靖に対してなんら評価する事もしなかったことが、
許劭の評価を下げる原因にもなっています。
そのことから許劭は平等に人を見るのではなく、
許劭自身の感情に基づいて、好き嫌いで相手を評価をする程度の人物だったと見られたわけです。
ただそのように許劭の評価が落ちたのはまだ先の話であり、
許劭の及ぼす影響が大きかったのは間違いなく、
特に曹操にとっては大きな名声を与えてくれた人物の一人になったことは間違いないでしょうね。