馬騰(ばとう、字:寿成)

馬騰(ばとう、字は寿成)は、司隸扶風郡茂陵県の人です。

その家系は、後漢の名将として知られる馬援の子孫と伝えられています。

 

馬騰の父である馬平は、羌族の女性との間に馬騰をもうけたとされており、

馬騰自身も漢族と羌族の双方に縁を持つ人物でした。

 

しかし、若い頃の馬騰は決して裕福な家に育ったわけではありません。

家業にも恵まれず、生活は貧しかったといいます。

そのため、彰山で材木を伐り、それを背負って町へ運び、売り歩くことで生計を立てていました。

 

そんな馬騰でしたが、非常に大柄な体格の持ち主でした。

身の丈は八尺余り(約185cm)もあり、身体は大きく、顔立ちも雄々しかったと伝えられています。

 

一方で、その外見から想像されるような粗暴な人物ではありませんでした。

性格は賢明で温厚であり、人々からも自然と敬意を集める人物だったといいます。

この「大きな身体と威厳ある風貌、そして温厚な人柄」という特徴は、後に涼州で多くの人々を従えるようになる馬騰の大きな魅力になったのでしょう。

涼州で起こった大規模な反乱

馬騰が歴史の表舞台へ登場するきっかけとなったのが、

後漢末期の涼州で起こった大規模な反乱でした。

 

中平元年(184年)冬、

北地郡の先零羌をはじめ、枹罕・河関の勢力などが相次いで反乱を起こします。

さらに北宮伯玉、李文侯、王国、辺章、韓遂らもこれに加わり、涼州一帯は大きな混乱に陥りました。

 

当時の涼州刺史・耿鄙こうひは、反乱を鎮圧するため、民間から武勇に優れた者を募って軍勢を編成します。

この時、その募集に応じた人物の一人が馬騰でした。

 

州郡の官吏たちは、馬騰の並外れた体格と能力を見抜き、彼を軍従事に任じて部隊を統率させます。

馬騰は実戦で功績を挙げ、やがて軍司馬にまで昇進しました。

 

貧しい材木売りだった青年は、こうして戦乱の中で武人として頭角を現していったのです。

王国・韓遂らとともに涼州で勢力を拡大

ところが中平4年(187年)、耿鄙と韓遂が争う中で、

涼州刺史の耿鄙が部下の裏切りによって殺害されると、涼州の情勢はさらに悪化します。

馬騰は自らの軍勢を率いて韓遂らの勢力に合流しました。

 

反乱勢力は王国を盟主として擁立し、三輔地方へ進出して各地を荒らします。

中平5年(188年)には、王国・韓遂らが陳倉城を包囲しました。

 

しかし翌年、皇甫嵩が率いる漢軍によって撃破され、包囲軍は大きな打撃を受けます。

 

この混乱の中で王国も命を落とし、

その後は反乱軍の内部で主導権をめぐる争いが始まりました。

 

涼州の諸将は互いに勢力を争い、やがて一つにまとまっていた軍勢も次第に分裂していきます。

このような状況の中で、馬騰もまた一人の有力な軍閥として独自の勢力を築いていくことになります。

董卓の台頭と馬騰の軍事的地位

後漢の中央政権が混乱を極める一方、

董卓が朝廷の実権を握るようになると、天下はさらに大きく揺れ動きます。

 

初平元年(190年)、董卓に反発する諸侯が関東で挙兵すると、各地で戦乱が繰り広げられました。

この頃、馬騰は龐徳らを率いて羌族・氐族の反乱を討伐していたとされます。

こうした軍事的功績もあって、馬騰は偏将軍に任じられました。

 

もともとは涼州の一軍人にすぎなかった馬騰でしたが、

度重なる戦乱を生き抜く中で、次第に朝廷からも無視できない存在へと成長していったのです。

長安へ進出し、李傕と対立

董卓が王允らによって殺害された後も、長安の政局が安定することはありませんでした。

董卓の旧臣である李傕・郭汜らが長安を制圧し、朝廷を思うままに動かすようになります。

 

初平3年(192年)、馬騰と韓遂らは軍勢を率いて長安へ進出しました。

馬騰は征西将軍などの官職を与えられ、郿に駐屯したとされます。

一方、韓遂も鎮西将軍に任じられ、涼州へ戻るよう命じられました。

 

ところが、馬騰はやがて李傕と対立することになります。

興平元年(194年)には、馬騰は一度入朝した後、霸橋付近に駐屯しました。

李傕と個人的な関係を結ぼうとしたものの、思うようにいかなかったことから両者の関係は悪化します。

 

そこで馬騰は、益州牧の劉焉とも連携し、李傕を打倒する動きを見せました。

この計画には、侍中の馬宇、劉範、种劭、杜稟らも加わります。

馬騰は食糧を確保する必要があるとして池陽方面への移動を上奏し、長平岸頭へ軍を移しました。

 

しかし、李傕側も黙ってこれを見過ごしてはいませんでした。

李傕は郭汜・樊稠・李利らを派遣し、馬騰軍と戦わせます。

 

こうして両軍は激しく衝突することになりました。

長安での敗北と韓遂との関係

馬騰は何日にもわたって李傕軍と戦いましたが、決着をつけることができませんでした。

この情勢を見た韓遂は、両者を和解させようとして軍勢を率いてきます。

 

しかし、結局は馬騰側に加わる形となり、戦いはさらに激しくなりました。

 

ところが、馬騰軍が出陣している隙を突かれ、

長平方面の守備兵から攻撃を受けたことで、馬騰軍は大きく崩れます。

劉範や种劭らも戦死し、馬騰側は多数の犠牲者を出す大敗を喫しました。

 

それでも韓遂は、樊稠と同郷だったことなどから、何とか戦場を脱出することができたと伝えられています。

 

 

敗北した馬騰と韓遂は涼州へ戻りました。

二人はその後、義兄弟の契りを結ぶほどの関係となります。

 

しかし、乱世の軍閥同士の関係は長く安定しませんでした。

やがて両者は再び対立し、互いに軍を率いて争うようになります。

 

韓遂は一度馬騰に敗れて逃走しますが、その後軍勢を立て直して反撃し、

馬騰の妻子を殺害するまでに両者の対立は激化しました。

 

この頃には、馬騰の息子である馬超も武人として成長しており、

韓遂配下の閻行と一騎打ちをしたという逸話も伝えられています。

こうして馬騰と韓遂の対立は、単なる軍閥同士の争いではなく、家族をも巻き込む深刻な抗争へと発展していきました。

鍾繇の説得&再び結ばれた韓遂との和解

一方、曹操は中原で勢力を拡大していました。

曹操にとっても、関中・涼州で馬騰や韓遂らが争い続けることは大きな脅威でした。

 

そこで曹操は鍾繇を司隷校尉に任じ、関中の諸勢力をまとめる役割を与えます。

鍾繇は長安へ赴くと、馬騰や韓遂に書簡を送り、天下の情勢と互いの利害を説きました。

さらに両者に子弟を人質として差し出させることで、両勢力の関係を安定させようとします。

 

鍾繇や涼州牧・韋端らの仲介もあり、馬騰と韓遂は再び和解することになりました。

 

その後、馬騰は槐里に駐屯するようになります。

そして前将軍・仮節・槐里侯などの地位を与えられ、胡族や張白騎らの侵入に備える一方、

士人を厚遇し、賢者を推挙するなど、単なる軍事指導者にとどまらない統治者としての一面も見せました。

 

民衆にも配慮したため、三輔地方の人々から非常に慕われたと伝えられています。

 

かつて材木を売って暮らしていた馬騰は、

こうして関中における有力な軍事・政治勢力の一人となっていたのです。

馬超・龐徳が鍾繇を支援する

建安7年(202年)、袁紹の死後、

その子である袁譚・袁尚らが高幹や郭援らを動かし、河東方面へ侵攻させました。

この時、馬騰と韓遂は当初、郭援らと通じていたとされています。

 

しかし鍾繇は張既を派遣して馬騰を説得し、さらに傅幹らも説得にあたりました。

その結果、馬騰は態度を改め、息子の馬超や龐徳らに兵を率いさせて鍾繇を支援します。

 

この援軍によって鍾繇らは郭援の軍を破ることに成功しました。

その後、馬騰は征南将軍、韓遂は征西将軍に任じられ、両者にはそれぞれ幕府を開くことも認められました。

 

馬騰はその後も張白騎・張琰・衛固らの討伐に参加するなど、

曹操政権にとっても重要な軍事力として利用される存在になっていきます。

関中から鄴へ

しかし、曹操が中国北部をほぼ制圧していくにつれて、

関中に独立した軍事勢力が存在することは、曹操にとって次第に大きな問題となっていきました。

 

建安13年(208年)、

曹操が荊州へ進軍しようとした際、関中に馬騰らの軍勢が存在することを警戒します。

そこで張既を派遣し、馬騰に軍勢を解散して中央へ帰還するよう説得させました。

 

馬騰はこれを承諾したものの、なかなか実際の行動には移しませんでした。

 

そこで張既は、馬騰が途中で翻意することを恐れ、

諸県に命じて食糧を準備させ、さらに太守たちを郊外まで出迎えに向かわせます。

こうして馬騰は、もはや帰還を拒むことが難しい状況となり、長年率いてきた軍勢を離れて中央へ向かうことになりました。

 

朝廷から衛尉に任じられ、馬騰本人とその家族は鄴へ移住します。

弟の馬休は奉車都尉、馬鉄は騎都尉に任じられました。

 

しかし、馬騰の長男である馬超だけは関中に残されました。

馬超には、父が率いていた軍勢を引き継いで管理する役割が与えられたのです。

 

ここから、馬騰と馬超の運命は大きく分かれていくことになります。

馬超の反乱、そして馬騰の最期

建安16年(211年)、曹操が関中への進出を進めると、馬超は韓遂、楊秋、李堪、成宜らと結び、曹操に対して反乱を起こしました。

いわゆる潼関の戦いへとつながる関中諸将の反乱です。

 

馬超と韓遂らは一時、曹操を大いに苦しめました。

 

しかし最終的には曹操の巧みな離間策などによって関中の連合軍は瓦解し、

馬超は敗れて涼州方面へ逃れることになります。

 

そして、馬超が反乱を起こしたことによって、鄴にいた馬騰にも重大な運命が待ち受けていました。

建安17年(212年)五月、馬騰は一族とともに処刑されます。

 

馬超が曹操に反旗を翻したことに対する報復でした。

こうして、かつて涼州の戦乱を生き抜き、関中で大きな勢力を築いた馬騰の生涯は幕を閉じます。

馬騰という人物

馬騰の人生を振り返ると、非常に波乱に満ちた生涯だったことが分かります。

 

貧しい材木売りから身を起こし、

涼州の反乱軍に加わったことをきっかけに武人として頭角を現しました。

 

その後、韓遂らとともに涼州・関中で勢力を拡大し、董卓、李傕らの勢力とも対立します。

 

さらに曹操の勢力が拡大すると、鍾繇らの仲介によって曹操政権との関係を築き、

最終的には中央へ召還され、衛尉という高位の官職にまで上りました。

 

一方で、馬騰が中央へ移った後も、息子の馬超は関中に残りました。

そして、その馬超が曹操と対立したことによって、馬騰自身も一族とともに命を奪われることになります。

 

馬騰は、単純に「善人」あるいは「悪人」と評価できる人物ではありません。

 

後漢末期という、中央政府の統制が弱まり、

地方の武人たちが自らの勢力を守らなければ生き残れない時代を生きた人物です。

 

時には反乱勢力に加わり、時には朝廷から官職を受け、また時には曹操と協力する。

その時々の情勢を見ながら生き残りを図った姿は、まさに後漢末期の群雄の一人だったと言えるでしょう。

 

そして何より皮肉なのは、

馬騰自身が最終的には曹操の政権に取り込まれ、中央で高い地位を得たにもかかわらず、

息子の馬超が曹操と戦うことによって、その人生の結末を迎えることになった点です。

 

馬騰の死後も、馬超はなお曹操への抵抗を続け、

やがて張魯を頼り、さらに劉備のもとへ身を寄せることになります。

こうして馬騰の家系は、後漢末期から三国時代へと続く激動の歴史の中で、なお重要な役割を担っていくことになるのです。

 

馬騰の反乱