三国志演義で蜀の五虎将軍と称された馬超の父親であり、

 

後漢末期の乱れた時代に、

馬一族の礎を築いた馬騰の生涯について見ていきたいと思います。

馬騰(ばとう)

馬騰は涼州扶風郡の出身で、身長も八尺(約185cm)ほどあり、

立派な風貌をしていたそうです。

 

かつて後漢の馬援の子孫ではあったんですが、

馬騰の時には貧しい生活を余儀なくされていたほど生活は貧窮していたといいます。

 

 

貧しい生活つと言っても

「そんな貧しいわけないじゃん!」と思われる方もいるかもしれません。

 

はい、普通に貧しいんです・・・

 

だから馬騰は森で木を切って、重い木材を市場に運んで売って生活していました。

馬騰の転機となる反乱

馬騰が木材を売って生活していた頃、

涼州を任されていたのは耿鄙こうひという人物だったんですが、

 

こいつがどうしようもないような人物だったんですよね。

 

 

ろくでもない官吏を重く用いたりしたために、

民衆や異民族(氐族・羌族)が「やってられねぇ!」と手を組んで反乱を起こします。

 

この反乱分子の中に、宋建・北宮伯玉・王国・辺章・韓遂とかがいたんですが、

涼州での火種として残っていく事になります。

 

 

耿鄙は「反乱はさすがにやばい!」と、

民衆から兵士になってくれる人を急募したわけです!

 

そこで耿鄙の募集に応募した一人が馬騰でした。

 

 

耿鄙は馬騰が優れた人物であると判断し、

馬騰を非常に信用して反乱の討伐に赴かせます。

 

馬騰は戦いの中でも結果をきちんと残し、馬騰は軍師馬まで瞬く間に昇進していくわけです。

馬騰の反乱

187年、涼州で新たな進展を迎えます。

 

韓遂がこれまで仲間的立ち位置であった辺章・北宮伯玉を殺害し、

彼らの勢力を吸収してしまったのです。

 

まさに韓遂が反乱分子の中で、

一気に頭角を現した感じだと思ってもらえば分かりやすいかなと思いますね。

 

そして調子に乗った韓遂は、隴西地方で暴れまわります。

 

 

これに対して涼州刺史であった耿鄙と韓遂が争う事になるんですが、

 

これから攻防が繰り広げられるという時に、

「もうこれ以上お前についていけねぇぜ!」と裏切者が出て殺害されてしまいます。

 

耿鄙が死んだことで馬騰はあっさり韓遂を寝返り、

この時に韓遂・馬騰のリーダーとして「合衆将軍」と称していた王国(王國)を擁立します。

 

 

王国を立てて新たに反乱を起こした韓遂・馬騰でしたが、

 

後漢の名将でもあった皇甫嵩に撃退された時に、

「お前はもう用なしだわ」とぶちぎれた韓遂に殺害されてしまいます。

 

 

韓遂が仲間だった者を容赦なく殺害する事は、

「次は心機一転次頑張るぞ!」みたいな感覚だったのでしょう。

 

それ以下でもそれ以上でもなく・・・

反乱に生涯を捧げた男「韓遂」

董卓に求められた馬騰・韓遂

霊帝が崩御したことによって跡継ぎ問題が起こり、

大将軍であった何進と宦官の間で対立が起こってしまいます。

 

その結果は、何進は宦官に殺害され、

宦官もまた何進の部下であった袁紹・袁術などに惨殺される始末。

 

まさに共倒れだったわけです。

 

 

この時に事前に何進から呼び出しを食らっていた董卓が、

劉弁(少帝)・劉協(献帝)を連れて逃げていた宦官を運よく見つけます。

 

董卓は宦官を殺害して、劉弁・劉協を取り返し、

我が物顔で洛陽へ入城を果たしました。

 

 

これ以後、董卓は殺された何進の兵士を吸収し、

丁原を殺害して兵士を更に吸収したことで、完全に董卓の時代が到来したわけです。

 

そして董卓は劉協を献帝として擁立し、洛陽から長安遷都を決行!

 

 

この時に董卓は涼州で暴れまわっていた韓遂・馬騰に声をかけます。

董卓も長らく涼州にいたので、董卓や馬騰との接点があったのでしょう。

董卓 -三国乱世を加速させた暴君-

董卓死亡からの李傕・郭汜の台頭

韓遂と馬騰は董卓の誘いを受けて長安を訪れるも、

その後王允が董卓配下の呂布を裏切らせ、董卓を殺害!!

 

しかし王允・呂布の天下も長くは続かず、

董卓軍残党であった李傕・郭汜に長安を奪われてしまいました。

 

王允は処刑され、呂布は逃亡・・・。

 

 

馬騰や韓遂は董卓から李傕・郭汜に政権が移ったのちも、

董卓同様に李傕・郭汜に接近します。

 

馬騰は征西将軍に、韓遂は征西将軍に任じられるも、

李傕・郭汜は二人が結束して反乱を起こさないように二人を引き離してしまいます。

 

馬騰は李傕・郭汜が拠点としていた長安近辺に、

一方の韓遂はというと、長安から離れた金城へと送られたわけです。

馬騰・韓遂の長安奪取計画

馬騰は韓遂と共に、長安にいた劉焉の息子であった劉範・劉誕と内通し、

長安奪取の計画を練るもこれは事前に漏れてしまいました。

 

馬騰・韓遂は計画通りに長安へ進むも、

計画が漏れていた事で簡単に大敗してしまいます。

 

結果として劉範・劉誕は処刑されるんですが、

馬騰は征西将軍から安狄将軍に降格されるもそれ以上のお咎めはなかったようです。

 

韓遂についての詳しい記録はないですが、

韓遂も普通に考えると降格させられている可能性はあるかと思います。

 

 

長安奪取に失敗した馬騰と韓遂は涼州へと引き上げるわけですが、

この時に二人は義兄弟の契りを結んでいます。

 

二人の良好な関係は長くは続かないのですけどね・・・

益州で独立国を夢見た劉焉

馬騰と韓遂の争い&終焉

馬騰と韓遂は義兄弟の契りを結ぶほどに親密な関係を築いていましたが、

次第に意見の相違により争いを始めるようになります。

 

そして二人の争いは激化し、

この争いの中で馬騰の妻子は韓遂によって殺害されています。

 

これにより二人の修復は不可能なまでに悪化・・・

 

 

しかしここに曹操が手を差し伸べます。

これにより馬騰と韓遂は戦いに終止符がうたれたわけです。

 

 

ただ曹操は袁紹との戦いが間近に迫っていた事もあり、

 

気まぐれに何をするか分からない馬騰・韓遂を、

手懐けておく必要があっての対策だったのは言うまでもないかもしれません。

 

思惑通りにことが運んだ曹操は、

背後の憂いを無くした形で袁紹と官渡でぶつかり勝利しています。

 

それからの馬騰は、異民族の侵攻を見事に防いだり、

曹操に協力する形で袁紹遺児であった袁尚との戦いにも参加します。

馬騰、曹操に味方する

袁尚は曹操の背後を襲う為に、

高幹・郭援と匈奴の単于でもあった呼廚泉に命じます。

 

馬騰は袁尚からの誘いもあり、

税所袁尚に味方することも考えたようですが、最終的に曹操に味方を決意!

 

馬騰は曹操の元へ馬超・龐徳を派遣し、

龐徳が見事に郭援を討ち取り、高幹・呼廚泉を降伏させています。

 

この功績により馬騰は衛尉に任じられました。

袁一族として最後の意地を見せつけた高幹

良くも悪くも自分の信念のもとに乱世を生き抜いた馬超

馬騰入朝する

曹操は馬騰に鄴にくるようにと言いますが、

曹操を完全に信用しきっていなかったこともあってか、

 

馬騰はなかなか涼州から出ようとしませんでした。

 

 

しかし最終的に子の馬休・馬鉄や一族を引き連れて、

馬騰は鄴へと入朝しています。

 

ちなみに鄴は、もともと袁紹の本拠地であり、

曹操が袁紹の遺児であった袁尚を追い払った後は、曹操の本拠地となっていた場所です。

 

そして馬騰がこれまで率いていた兵士達は、

長男であった馬超が引き継ぐことになったわけです。

馬騰の最後

曹操が張魯の治める漢中へ進行するそぶりを見せた事で、

馬超は危機感を覚えます。

 

これは馬超だけでなく、韓遂も同様でした。

 

 

韓遂は馬騰と関係を修復できていませんでしたが、

馬超と韓遂は曹操の侵攻への不安から、同じ目的の為に手を組むことを決意します。

 

また馬超と韓遂同様に涼州の軍閥でもあった者達にも声を掛け、

楊秋・成宜・李堪・程銀・侯選・張横・馬玩・梁興と手を組んで反曹操連合を結成!

 

これより両陣営は潼関で対峙しますが、

賈詡の離間の計により、最終的にこの戦いは曹操が制します。

韓遂の手下八部(関中八部)

 

曹操は馬超・韓遂に帰順するように呼びかけますが、

馬超や韓遂は涼州で徹底抗戦の姿勢を見せた為、

 

曹操が人質として預かっていた韓遂の子・孫は処刑されてしまいます。

 

また馬騰はじめ、馬一族も例外ではなく処刑されてしまい、

馬騰は生涯に幕を下ろしたのです。

 

 

三国志演義では馬騰は曹操の罠にかかって処刑され、

それに激怒した馬超が反乱を起こすという流れになっていますが、

 

実際は馬超が反乱を起こしたことで、

馬一族が処刑されている点が大きな違いになっていますえ。