幼少時代の郤正(げきせい)

郤正げきせいは、幼い頃から一人で生活を余儀なくされていた人物でした。

 

その理由はわかりやすいもので、

父であった郤揖げきしゅうが孟達と共に魏に寝返ってしまったからです。

 

郤正は残された母との二人ぐらいになりますが、

郤正の母が再婚してしまった事によりほとんど捨てられた状態になります。

 

そういう流れの中で、郤正は一人で生活せざるを得なくなったというわけですね。

 

 

貧しい生活を送りながらも志を高く持っていた郤正は、

多くの書物を読み、学問に励んで己を高める事に力を注ぎました。

 

その結果、見事なまでの文章を書けるようになったといいます。

 

 

そんな郤正ですが、二十歳の時に「秘書吏」として取り立てられ、

「秘書令史」「秘書郎」を経て、最終的に「秘書令」に昇進しています。

降伏文書の作成

鍾会・鄧艾による蜀討伐が開始され、

 

姜維と鍾会が剣閣で一進一退の攻防し繰り広げる中、

鄧艾が陰平道の裏道から奇襲を仕掛ける形で侵攻してきます。

 

その際に綿竹関を守っていた諸葛瞻・諸葛尚親子は討死し、

成都の前線防衛拠点が落とされた事で劉禅はどうしたものかと思案に暮れてしまいます。

 

 

そして劉禅は

「姜維など各地から援軍が駆けつけてくるまで、

成都で籠城した方が良いのか・・・

 

はたまた南方地域に逃げて再起を図った方が良いのか・・・

それとも呉へ落ち延びた方が良いのか・・・」

と臣下と議論を交わしていたわけです。

 

 

そんな中で劉禅に対して、譙周が強い口調で、

「すぐに降伏すべきです!」と進言したのでした。

 

そして続けざまにその理由を語りだし、

「もしもうまくいかなかった際は、

全ての責任は私が取ります!!」とまで言います。

 

迷っていた劉禅でしたが、

譙周の話を聞いて鄧艾に降伏する事を決意!

 

 

 

そして劉禅は鄧艾が成都へと到着すると、

 

手を背後に回して縛ったうえで棺を持ち出し、

鄧艾へと降伏の意思を示したのでした。

 

 

鄧艾は劉禅の降伏を受け入れるのですが、

この時に降伏文を作成したのが郤正だったのです。

 

つまり郤正は蜀の中でそれほど目立ったような存在ではなかったのですが、

蜀の国として、最後の大仕事を任されたわけですね。

劉禅は白布の如し

郤正のその後

劉禅が鄧艾に降伏した後、劉禅は洛陽へと移動させられます。

この時に郤正は妻子を益州に残して、劉禅に付き従っていくことを決意します!

 

郤正は常に劉禅の補佐に尽力し、

「そのお陰で劉禅は落ち度のない行動ができた」といいます。

 

そして劉禅は蜀時代に郤正を評価し、

もっと大きな仕事を任せなかったことを後悔したわけです。

 

 

また魏が滅び、司馬炎による晋が建国されると、

安陽県令となり、最終的に巴西太守に任じられています。

 

そして278年に天寿を全うしてこの世を去っています。

郤正の姜維に対する評価

多くの者達が国力低下の原因を作った姜維を非難する者が多い中で、

郤正は姜維のことを高く評価した数少ない一人です。

 

 

その理由を郤正は次のように述べています。

 

「姜維は大将軍にまで、

出世した人物であるにもかかわらず、

 

質素な生活を送り、私財を貯め込むこともなかった。

 

そして姜維は常に学問に励み、

国の事を考えて生きた人物で模範とすべき人物の一人である」と・・・

 

そしてそれに続けて、

「失敗した者が評価されないのは当然ではあるが、

姜維の評価が見直されないのもまた残念である」とも述べています。

 

 

劉禅に降伏を説いた譙周も、

姜維の北伐について非難している「仇国論」もありますしね。

 

ちなみに三国志注釈をつけた裴松之は、

姜維や郤正について肯定的な考えを付け加えています。

譙周(しょうしゅう)著書の「仇国論」はどんな内容だったの?

司馬昭との宴席での逸話

横山光輝三国志(60巻248・249・250P)より画像引用

 

「蜀志」後主伝の注釈「漢晋春秋」に、

次のような劉禅と司馬昭の逸話が残されています。

 

司馬昭が劉禅や元蜀の臣下を招いて宴席を開いた時の事でした。

 

この時に司馬昭は劉禅や元蜀臣のことを気遣い、蜀の音楽を演奏させたといいます。

 

その音楽を聞いた元蜀臣の多くの者達が、

蜀のことを思い出して涙が溢れてきたそうです。

 

そんな中で劉禅は懐かしむような素振りもなく、宴会を楽しんでいました。

 

 

その様子を見た司馬昭は驚くとともに腹心であった賈充に対して、

人間という者は、ここまで感情を無くすことができるものなのか・・・

 

これでは諸葛亮が生きていたとしても限界があっただろう。

ましてや姜維なんかでは・・・」と語ったそうです。

 

それを聞いた賈充は、

「だからこそ蜀を併呑できたのですよ」と答えたといいます。

 

 

 

そして司馬昭は劉禅に対して、

「蜀での生活をたまにでも思い出すことはありますか?」と尋ねると、

 

劉禅は「今の生活が楽しいから思い出すことはないですね」と返したといいます。

 

それを聞いた司馬昭をはじめ魏・蜀のは臣下一同は、素直にびっくりしたわけです。

 

 

この時に劉禅の耳元で次のようにささやいたのが郤正で、

 

「次同じような質問をされた際は、

先祖の墓が益州にあり、蜀を思い出さない日はありません。」

と答えるように言ったそうです。

 

 

司馬昭は郤正の会話が聞こえていたようで、同じような質問を再度したのです。

 

そうすると劉禅は郤正から教えられた言葉をそのまま応え、

司馬昭から「そのままの言葉ですね」と返されて物笑いになったという話ですね。

 

 

こんな逸話があるからこそ、劉禅を暗愚だと言う人も多いかもしれませんが、

 

少なくともそんな劉禅だからこそ、

乱世という世の中にあって天寿を全うできたのだと思います。