劉備亡き後に南蛮王であった孟獲が反乱を起こして、

七度捕らえて七度解放させた「七縦七擒」の話は有名ですが、

 

あくまでこの設定は三国志演義の話であって、

真実の孟獲の姿とはまた違っているというのが正直なところです。

 

ここではそんな孟獲について見ていきたいと思っています。

孟獲(もうかく)

三国志演義では南蛮の王として描かれている孟獲ですが、

そもそも南蛮民族の王どころか南蛮民族ですらないのが実際の孟獲像です。

 

正史に残されている孟獲はあくまで漢民族としてです。

 

ただ南方の民衆らから慕われていたのは事実ではありますけど・・・

 

 

そして孟獲が大規模な反乱を起こしたのではなく、

 

あくまで雍闓ようがいが反乱を起こしたのであって、

朱褒・高定・孟獲らは、雍闓の反乱に加担したといった形ですね。

 

あくまで雍闓指揮下の一武将であったと考えてもらえれば、

孟獲がどういう立ち位置で反乱を起こしたのか分かりやすいかと思います。

 

 

ただこれは三国志演義でも描かれていますが、

雍闓は高定と仲間割れを起こす形で高定の部下に殺害されています。

高定(高定元) -雍闓の反乱に呼応した叟族の王-

 

 

 

そして雍闓の後釜として、

孟獲を後押ししたのもまた高定でした。

 

 

その後まもなくして高定は捕らえられて処刑されてしまうものの、

孟獲の抵抗はしばらく続いていきます。

 

 

「七縦七擒」という諺でも有名ですが、

諸葛亮に敗れて孟獲は捕らえられることとなります。

 

そして心から孟獲らを従わせる為に、諸葛亮は何度も解放を繰り返したのでした。

ただそれが七度も解放させたかというと話はまた別ですが・・・

 

 

おそらく孟獲を数度解放したかのような記載は見られますが、

個人的な考えとしては七度もはなかった気がします。

 

あくまでこの辺りは推測になってしまいますね。

孔明と孟獲(南蛮討伐/七縦七擒)

蜀政権の中で活躍した孟獲

諸葛亮に感じ入った孟獲は最終的に降伏するわけですが、

諸葛亮の南方制圧は滇池てんちに到達したことで終わりを迎えました。

 

 

この遠征によって、南方の異民族らは諸葛亮に従うことになり、

 

直接支配がなかなか行き届かない土地であったこともあり、

地方豪族であった以下の一族に任せて南方維持に努めたようですね。

  • 孟氏
  • 焦氏
  • 婁氏
  • 爨氏
  • 雍氏
  • 量氏
  • 李氏
  • 毛氏
  • 李氏

 

その後の孟獲の詳細は記載は残されいませんが、

蜀の中で手柄をあげたことから「御史中丞」まで昇進したそうです。

 

 

実際「御史中丞」と聞いてもしっくりこないかもしれないので、

 

軽く三国時代のわかりやすい例を出すと、

諸葛亮や劉備との縁が深い徐庶が「御史中丞」になっていますね。

 

 

劉備から曹操の元へと移った徐庶は、

曹操・曹丕・曹叡の三代にわたって仕えました。

 

最終的に魏での大きな活躍がなかった徐庶が、

諸葛亮と同じ234年になくなっているのもどことなく運命的なものを感じます。

最後まで親孝行の道を貫いた徐庶

「華陽国志」によって激変した孟獲の存在

孟獲の存在が大きく残されたのが、

実は「華陽国志」に記載されている内容なんですよね。

 

この「華陽国志」は三国志時代より少し後になる東晋の時代に書かれたもので、

益州あたりのことを書かれたものになります。

 

 

「華陽」が巴郡・蜀郡などそっち方面を意味する言葉ではあるんで、

 

そう考えると「華陽国志」が「益州の国の歴史」となるので、

当然といえば当然の話になるんですけど・・・

 

 

「華陽国志」で孟獲が取り上げられたことで、

皆さんもよく知っている裴松之による注釈が加えられた際に、

 

孟獲という存在が陳寿の書いた三国志正史にも追記されるようになったという流れですね。

 

 

そして最後は明時代に書かれた三国志演義によって、

 

更に孟獲の存在が大きく取り立てられ、

南蛮の反乱≒孟獲というようなイメージがついたわけです。

「華陽国志」に残された孟獲の逸話①

什邡侯であった雍歯(劉邦時代)の末裔と言われた雍闓に同調し、

雍闓の反乱に参加した朱褒・高定・孟獲らでしたが、

 

雍闓の反乱に味方する兵士らはそれほど多くなかったというのが実情でした。

 

 

そこで南方の人達から信頼を得ていた孟獲が一計を案じます。

 

「劉禅らが斲木の材木で、

かつ三丈のものを三千枚送るように命令を出しているが、

 

ここらの木は曲がっているものがただでさえ多いのに、

お前達はそれを集めることができるのか!?」

 

といったことを南方の人々へと嘘の流言を流したのです。

 

 

それにより雍闓・朱褒・高定・孟獲らが反乱を起こさないといけない理由を広めて、

味方する者たちを増やそうと画策しました。

 

これによって雍闓の反乱に参加する者達が続出し、

大規模な反乱へと発展していったのです。

「華陽国志」に残された孟獲の逸話②

諸葛亮が雍闓の討伐に乗り出したまではいいものの、

雍闓は仲間内で争いが起こって殺害されてしまうという事件が発生します。

 

それ以後も孟獲が反乱を継続させるわけですが、

その反乱継続の中で「七縦七擒」の由来が誕生しています。

 

 

それから孟獲と諸葛亮との戦いになっていきますが、

 

諸葛亮が孟獲を捕らえた際に、

わざわざ諸葛亮は孟獲を連れて蜀陣営を見せて回ったのでした。

 

 

この陣容を見た孟獲は、

「これほどまでに差があったとは知らなかった。

我々が勝てるはずがない・・・」と語ったとされています。

 

 

この件があってからというもの、

諸葛亮は孟獲が話が分かる存在だと理解し、

 

孟獲を釈放する形で最終的に心から従わせようと思ったようです。

 

 

諸葛亮は孟獲を捕らえては釈放してを繰り返し、

最後に「我々南方の民が逆らうことはないでしょう」みたいな流れに・・・

 

 

そして話が分かる孟獲を諸葛亮は中央でも取り立て、

 

その期待に応えた孟獲は、

「御史中丞」まで出世しているのでなかなかのものです。