羌族の四首領と言えば、

 

羌族が住んでいた隴西・南安・金城・西平郡の首領であった餓何・焼戈・蛾遮塞・伐同の四人が、

協力して魏に反乱をしたことで名が知られています。

 

ここでは四人の首領のうち蛾遮塞がしゃさい伐同ばつどうについてみていきます。

蛾遮塞(がしゃさい)・伐同(ばつどう)

羌族の四首領の一人であった蛾遮塞は、

おそらく西平郡の首領であったと思われます。

 

また一方の伐同はというと金城郡の首領ではなかったかと考えています。

 

 

蛾遮塞や伐同に関しての記述は「郭淮伝」の記載により分かるわけですが、

 

郡の順番と四首領の順番から普通に考えて、

その地域の首領が並べられていると考えた方が自然だからです。

 

そう考えると以下のような感じで推測できるんですよね。

  • 隴西郡→餓何
  • 南安郡→焼戈
  • 金城郡→伐同
  • 西平郡→蛾遮塞

 

 

蛾遮塞・伐同・餓何・焼戈の四首領は協力して魏に対して反乱を起こします。

247年の出来事でした。

 

ちなみに餓何・焼戈は餓何焼戈として三国志演義に登場していますが、

蛾遮塞・伐同に関しては、正史にだけ登場している人物になります。

二人の人物が合体して出来上がった餓何焼戈(がかしょうか)

反乱の戦争経過(姜維の参戦)

四首領が連合を組んで起こした反乱に乗じる形で、

姜維が北伐の軍を起こします。

 

実際は姜維の北伐に反対していた費禕が大きな権力を持っていたこともあり、

姜維の北伐は小規模のものだったといえそうですが・・・

 

 

そして姜維の北伐の知らせを聞いた蛾遮塞・伐同・餓何・焼戈らの連合軍は、

自然と士気があがったのは言うまでもないですね。

 

そして連合軍は魏との対決にのぞむことになります。

反乱鎮圧に赴いた郭淮

 

羌族の反乱鎮圧を任されたのは郭淮でした。

 

当初は夏侯覇がその鎮圧にあたる予定だったようですが、

実際に当たったのは郭淮だったようです。

 

反乱鎮圧を任された郭淮ですが、

多くの者達がまとまりに欠けている羌族の反乱をまず鎮圧するように進言します。

 

 

しかし郭淮は羌族の心の拠り所となっている姜維を蹴散らすことが最優先であり、

 

姜維の軍勢を蹴散らすことができれば、

自然と羌族の反乱軍の士気が落ち、簡単に鎮圧も可能だろうと判断したのです。

 

この時、夏侯覇と姜維が激突する感じになりますが、

夏侯覇を援護する形で郭淮が加勢しています。

 

これにより、姜維は余儀なく撤退・・・

 

 

姜維が撤退したことを知った蛾遮塞・伐同・餓何・焼戈らの連合軍の士気は、

大幅に低下してしまいます。

 

蛾遮塞らは連合軍を鼓舞しますが、

一度崩れた士気は元に戻ることはありませんでした。

 

 

そして連合軍は、郭淮軍に徹底的に叩かれてしまい、

 

餓何や焼戈にいたっては、

一発逆転をかけて郭淮に一騎打ちを申し込んだようですが、

 

見事に郭淮に返り討ちにあって討死してしまいます。

生涯をかけて蜀と羌族と戦い続けた郭淮

 

ここにいたって残された蛾遮塞・伐同は撤退しようとしますが、

伐同はここで消息不明になっており、おそらく討死したのだろうと言われています。

 

四首領のうち、三人が討死してしまったものの、

蛾遮塞は、四首領の反乱に力を貸していた治無戴ちむたいと共になんとか落ち延びることに成功!!

治無戴(ちむたい) -餓何・焼戈・伐同・蛾遮塞の反乱に手を貸した涼州の豪族-

蛾遮塞のリベンジ戦

四首領のうち、唯一生き残った蛾遮塞は、

治無戴と協力して翌年の248年に再び反乱の火の手を上げます。

 

 

蛾遮塞。治無戴は河関・白土の城を拠点にし、

魏との対決を試みたわけです。

 

しかしここでも蛾遮塞の前に立ちはだかったのが郭淮でした。

 

 

郭淮は河の上流から攻め込むと見せかけ、下流から奇襲をしかけて白土の城を見事に占領!

勢いに任せた郭淮は蛾遮塞・治無戴を撃退し、この戦いに決着がつきます。

 

蛾遮塞・治無戴は行き場をなくし、蜀へと亡命していくこととなります。

 

 

蛾遮塞・治無戴についてはこれ以後の記載はほぼ残っていない為、

蛾遮塞・治無戴が「どういう活躍をしたのか」「どういう最後を遂げたのか」などはわかっていません。

 

ただ姜維はこの時に帰順した者達について、

成都の近くにあった繁県に安住させたという記録が「姜維伝」に見られる程度です。