諸葛亮(孔明)が発案したとされているもので、

北伐の際に食糧輸送などで役立った木牛流馬の話は有名です。

 

他には諸葛亮が発明したものとして連弩が有名でしょう。

 

 

しかし実際は諸葛亮が発明したというのは少し違うんですよね。

今回はそんな諸葛亮の陰に埋もれてしまった技術者・発明者である蒲元ほげんを紹介します。

蒲元(ほげん)

諸葛亮に仕えた技術者の中に蒲元という人物がいました。

 

ただ蒲元に関することは、

三国志正史にも三国志演義にも登場しません。

 

ちなみに魏の技術者・発明者であった馬鈞は、

三国志正史・三国志演義にも登場する人物なので、馬鈞と正反対になりますね。

 

 

三国志正史にも三国志演義にも登場していないなら、

完全に架空の人物だと思う人もいるかもしれませんが、

 

蜀にはきちんと記録した資料が少なかったこともあり、

諸葛亮に仕えた蒲元の名が正史に残らなかったのも自然な気がします。

 

というかおそらくそんな所でしょう。

 

張飛や趙雲といったメジャーな人物ですら、資料が少ないぐらいですからね・・・

 

 

三国志正史に登場していない者の多くは、実際架空の人物が多いですが、

蒲元に関して言えば、話が全く違ってくるんです。

三国時代随一の天才発明家、馬鈞

「全三国文」「太平御覧」とは?

蒲元についての記載があるのは、

「全三国文」「太平御覧」の二つになります。

 

 

ちなみに「全三国文」とは、「全上古三代秦漢三国六朝文」の中にある項目で、

「全三国文」には三国時代の人物(294名)についてののことを様々な資料から断片的に取集されているものです。

 

これを編纂したのが清時代の嚴可均げんかきんなのですが、

「全上古三代秦漢三国六朝文」の中のものは、丁寧に参考にした資料の出典が書かれています。

 

この294人の中の一人として蒲元が登場しています。

 

 

一方の「太平御覧たいへいぎょらん」なんですが、これは10世紀の宋時代に書かれたもので、

千巻から構成される「太平御覧」は、様々な時代の人物についてのことが記載されているものですね。

諸葛亮の懐刀であった蒲元

蒲元は、諸葛亮の西曹掾として仕えていました。

もう少しわかりやすい表現をすると、諸葛亮直属の部下といったところでしょうかね。

 

 

曹掾は東曹掾と西曹掾があり、

丞相や大将軍が自分の仕事をスムーズに行えるようにする為に任命する役職です。

 

ちなみに徐州時の劉備に最初仕えて、

その後丞相であった曹操に仕えた陳羣なんかは、この西曹掾に任じられていますね。

「九品中正制度(九品官人法)」の産みの親、陳羣(ちんぐん)

 

 

この蒲元は人が思いつかないようなことを考え付くことも多く、

様々なものを発明していたといいます。

 

「全三国文」には次のような記載が残っています。

「諸葛亮様、かねてより考えていた木牛を完成させることができました。

 

木牛の二本の取手を上下に移動させることで、

人間が六尺を歩く距離を木牛を使うならば四倍の速さで進むことができます。

 

この木牛を使えば、一年分の食糧を一人で運ぶことも可能になりますよ。」

と木牛を製作して作り上げたことを諸葛亮に報告したようです。

 

 

ちなみに木牛とは、諸葛亮が開発した木牛流馬のことですね。

 

木牛と流馬は別々とも言われていますが、

まぁどちらにしても蒲元によって開発・製造されたという事になるわけです。

 

 

ただ正史には諸葛亮が木牛流馬を作ったという記載が残っていますし、

そうなると矛盾が発生してしまうことになりますよね。

 

そこから考えれることとして、

諸葛亮が輸送手段の為の構想を蒲元に提出し、

 

蒲元が技術者として木牛流馬の具体的な仕組みを考えてから、

それを実際の形にして作り上げたのでしょう。

 

何故ならただでさえ他の職務で大忙しの諸葛亮が、

開発・製造まで全て手掛けるのにはさすがに無理がありますしね。

 

 

そう考えれば諸葛亮が生み出したとされる連弩も同様の事が言えます。

 

諸葛亮が連弩のおおまかな案を考え出して、

それを蒲元が連弩としてこの世に生み出したという流れでしょう。

諸葛亮の発明品(木牛流馬・連弩・饅頭・諸葛菜等)

三千刀を鋳造した逸話

蒲元は一度たりとも刀作りをしたことがありませんでした。

 

そんな蒲元でしたが、

斜谷にこもりつつ三千の刀を鋳造したそうです。

 

そして作りあげた三千の刀を諸葛亮へ献上したのでした。

 

 

素人であろうはずの蒲元が三千の刀を鋳造したことも驚きですが、

驚くところはここではありません。

 

この時代の一般的な鋳造方法とは異なる方法を採用し、

金(ゴールド)を溶かして刀型を作って鋳造を行ったそうです。

 

このように蒲元はこの時代にあり得ないやり方を編み出していたのです。

 

 

ただあり得ないと言っても、

三国時代は乱世ということもあって様々な武器の改良がされたりしていました。

 

例えば異種の鉄を練り合わせるといった灌鋼法かんこうほうというやり方などが有名どころでしょう。。

 

乱世という戦いが絶えない時代には、

自然と技術が進歩してしまうという皮肉なことが起こってしまうんですよね。

 

 

まぁ蒲元が何よりお凄い所は刀を何度も作るうちにではなく、

作ったこともないのにその技術に辿りついたということは驚くしかありません。

「焼き」の技術&水に関する逸話

蒲元の技術として驚くべき点は、

この時代に「焼き」という技術を刀に入れていたことです。

 

そして蒲元は「焼き」を入れる為に、それに適した水を求めたそうです。

 

その際に漢水(漢中あたりから流れている川)の水は適しておらず、

長江に繋がる川が「焼き」に適していると判断して、わざわざ水くみに行かせることがあったのでした。

 

 

そんな中で水汲みに行かせた一人が早く帰ってきた際に、

その水を使って蒲元が「焼き」を刀に入れようとした所、それが長江の水ではないとすぐに分かったといいます。

 

その水を汲んで来た者は、蒲元の言葉を聞き、

「この水は紛れもなく長江の水です!」と慌てて嘘をついたわけです。

 

 

しかし蒲元は鋳造した刀を水につけただけで、

「涪水の水が八升も混じっているではないか!」と返します。

 

これを聞いて嘘をついた者は、

「長江の水を途中でこぼしてしまって、慌てて涪水から水を追加したのです。」と白状しました。

 

この話を聞いた者達は、非常に驚いたといいます。

 

こうやって作られた刀は、

鉄球をつめた竹筒を草を切る如く簡単に切れたことから「神刀」と呼ばれたそうです。

 

 

「焼き」をいれることで、刀の強度が増し、切れ味が高くなります。

この時代に「焼き」の技術を確立させていた蒲元は只者ではないと言わざるを得ないと思います。

 

蜀が魏・呉に比べて弱小であったにも関わらず、

諸葛亮が魏と渡り合えた裏には、こういった優れた武具が蜀を支えていたのでしょう。

蜀の軍事力を支えた蒲元

上記のように三国時代でも国力として一番劣る蜀が、

 

魏・呉と渡り合えた裏側には確実に蒲元が開発・製造した刀・連弩をはじめ、

輸送用としての木牛流馬が力を発揮したことは間違いありません。

 

 

勿論諸葛亮が知恵を振り絞り、

多くの武将たちが必死に戦ったこと前提としてありますけど、

 

同じ武器でも相手国より殺傷能力が強い武器を使うことで、

確実に戦争で敵方よりも成果を上げやすかったのこともまた間違いないでしょう。

 

 

ただ発明家といえば魏の馬鈞の名がやはり登場すると思いますが、

馬鈞は思案から製造まで全て一人でやっていたような感じでしたし、

 

そのせいで実際に発明品の完成までこぎつけなかったことが多かったのが正直な所です。

 

 

もしも魏が馬鈞を後押しし資金提供や人材を派遣してくれていたならば、

もっと多くの発明品が生まれたことは間違いないでしょう。

 

しかし、実際はそうではありませんでした。

 

 

そういった意味では、大まかな発案を諸葛亮が考え出したからこそ、

 

諸葛亮からの圧倒的な後押しを受けた蒲元は、

資金や作成に必要な人材を苦労なく集めることができたと想像できるわけです。

 

そういう背景があったからこそ、

蒲元の手によって連弩・木牛流馬などの実現化にこぎつけれたのだと思います。

 

 

技術者・発明家として、

蒲元は馬鈞より環境的に恵まれていたでしょうし、

 

発明者・技術家としては、これほど幸せな人生はなかったかもしれませんね。