曹操と袁紹が官渡の戦いで激突し、
曹操が勝利をおさめたことで、流れは曹操の時代へと移っていきました。
その後、袁紹が失意のうちにこの世を去り、
袁紹の遺児であった袁譚・袁尚が後継者争いを起こしたのですが、
そこを曹操に付け込まれる形で、袁家は滅亡してしまいます。
今回紹介する李孚はそんな滅びゆく袁家の戦いの中で、
一度だけでなく、二度までも曹操に一泡吹かせた人物だったのでした。
李孚(りふ)
李孚は冀州鉅鹿郡の人物で、
もともと馮孚という名でしたが、李孚に名を改めます。
李孚は一度決めたらその考えを最後まで貫き、
きちんと実行するといったように頑固な性格の人物で、
別の言い方をすれば一本気があるといったところでしょう。
そんな李孚が興平(194~195年)の際に、
畑でニラの栽培をしていたことがあったようです。
李孚は「ニラが大きく育つまでは絶対に食べない」と心に決めていました。
しかし鉅鹿で飢饉が発生し、多くの人々が飢えに苦しみます。
人々は李孚にニラを分けてくれるように嘆願したそうです。
しかしニラが大きく育つまで食べないと決めていた李孚は、それを拒否する始末。
もちろん飢えに苦しんでいたのは李孚も同様だったのですが、
自分自身も飢えているからと育ちきっていないニラを食べることはなかったのです。
鉅鹿の人々はどんな状況においても、信念を曲げなかった李孚の姿を見て、
それ以上ニラを求めることはしなかったといたばかりか、逆に感心したといいます。
袁紹・袁尚に仕える
李孚は冀州を治めていた袁紹に仕えることとなります。
実際は袁紹の三男にあたる袁尚の手簿として使えることになったのが正確な所ですね。
その後袁紹が官渡の戦いで曹操に敗れ、202年6月に失意の中でこの世を去ります。
ただこの時に大きな問題が袁家に降りかかります。
袁紹が後継者をはっきりと決めていなかったことが原因で、
長男の袁譚と三男の袁尚の間で臣下を大きく二つに分けた後継者争いが勃発!!
官渡の戦いに敗れたとはいえ、まだまだ袁紹の勢力は強大であり、
曹操は袁紹の勢力を最後まで恐れ、
袁紹が生きている間、曹操は攻め込むことはありませんでした。
しかし袁紹が死んだことで、
冀州を手に入れるきっかけをつかむことになります。
袁譚と袁尚の争いが激化するにつれ、不利に陥った袁譚が曹操に助けを求めたわけです。
曹操は袁譚の助けを利用し、もともと袁紹の本拠地でもあり、
現在は袁尚の本拠地となっていた鄴に攻め込みます。
この時に鄴を守っていたのは審配で、曹操相手に一歩も引かず善戦していました。
そのタイミングで登場したのが李孚です。
曹操を欺く①
曹操によって包囲されていた鄴でしたが、
鄴を必死に守る審配らを救うべく、袁尚自ら援軍へかけつけます。
しかし完全に包囲されている鄴へ入ることは難しく、
袁尚はまず援軍が近くまできていることを城内に知らせ、
城兵の士気を高めることが大事だと考え、まず使者を送ろうと考えます。
この時に袁尚は李孚に誰を使者として送ったらよいか問いかけたそうです。
これに対して李孚は、
「城内へ援軍の知らせる死者が務まるのは、私以外いないでしょう」と返答し、
袁尚は李孚に任せたのでした。
李孚はまず信頼できる3人を率いて鄴へと向かいます。
ただこの3人にはこれから鄴の城内へと向かう事を告げずに出発します。
目的地を話せば、もしかしたら怖気づく者が現れたり、
敵に捕らえられるようなことがあれば、計画が失敗する可能性もあったからですね。
大軍で包囲されている鄴へ3人で侵入を試みるわけですから当然な配慮だったと思います。
李孚は3人の者達に巡察用の杖を持たせて、
曹操軍の都督を装って北陣の中を堂々と進んでいったのです。
李孚は怠けている者を見つけると、
罰を一つ一つ言い渡したりと、完全に曹操軍の都督になりすまし、
その李孚の様子に周りの兵士達は疑う事もなかったのでした。
そして李孚はすんなりと包囲を抜けて鄴へとたどり着くことができたわけです。
援軍が近くまで来ていることを知らされた審配ら城内の士気は、
一気に高まったのは言うまでもないですね。
また李孚らが鄴へ入り込んだことを知った兵士らが、
そのことについて曹操に報告すると、
「そいつは只者ではない。
もう少ししたらまたそいつらは城から出てくるぞ!」と笑ったといいます。
曹操を欺く②
無事に審配に援軍のことを知らせることに成功した李孚でしたが、
無事に報告できたことを袁尚に知らせなければ完全に任務を達成したことになりませんでした。
袁尚の立場としては、きちんと連絡が城内に届いたか分からないと、
次の行動を起こしにくいからですね。
しかし李孚をまんまと城内に入らせたことで、
曹操の警戒は非常に厳重なものとなっていました。
曹操が「また近いうちに出てくるぞ!」と言っていたから尚更なわけで・・・
そこで李孚は審配に対して、
「鄴の食糧は残りも少なく、この危機迫った中で戦えない老人・子供・女などに食わせても意味がない。
ここは彼らを追い出して長く篭城ができるようにしておきましょう!
その間に私自身は、どさくさに紛れて袁尚様の元へと戻ります」と告げます。
審配はもっともな話だと納得し、まず夜を待って、
さっそく老人らに白旗と松明を持たせて曹操へと降伏させたのでした。
そして降伏してくる者達に気を取られていた兵士らの隙をついて、
李孚はどさくさに紛れて曹操陣営をすりぬけ、袁尚の元へとあっさりと帰還していったわけです。
そのことを知った曹操は、
あまりに見事な李孚の策略に笑うしかなかったそうです。
そしてその後に一言だけ、
「私が前に言ったとおりになっただろう」と負け惜しみを言う始末。
ただ見事すぎた李孚の手際の良さに、曹操は敵ながら感嘆したのも事実だったでしょうね。
その後の李孚
袁尚の元へと無事に戻った李孚でしたが、
袁尚は鄴を救うどころか、曹操によって蹴散らされて撤退していったのでした。
曹操はここぞと言わんばかりに袁尚を追撃しますが、
この時に李孚は袁尚とはぐれてしまいます。
ちなみに袁尚を追撃していた中には袁譚の軍勢もおり、
これ以上逃げられないと悟った李孚は同じ袁家である袁譚の元に降ります。
しかし曹操側であった袁譚の命運も長くは持ちません。
袁尚らを北方に追いやった後、次の標的は袁譚に狙いを定めたわけです。
冀州を完全に治めたいと考えていた曹操にとって、袁譚はただのきっかけにすぎず、
ただの道具に過ぎなかったのでした。
袁譚は曹操との戦いで当たり前のように敗れ、討たれてしまいます。
袁譚が討たれたことで平原の兵士や民衆が混乱を起こし、
「混乱を無事に収めて、降伏させたい」と李孚が使者としてやってきました。
曹操は李孚が以前に見事に自分を欺いたことからも、
李孚の手腕を信じ、その役目を任せたのです。
そして無事に平原の混乱を収めた李孚の功績を、曹操は改めて高く評価!!
李孚はそのまま曹操に仕えることとなったのでした。
曹操に仕えてからの李孚は、諫言などによって貶められたりすることもありましたが、
李孚は次第に評価され、司隷校尉にまで出世していきます。
李孚は既に70歳を超えていましたが、
若い時と変わらず機知に富み、計略も見事だったそうです。
そんな李孚でしたが、陽平太守を任されていた最中にこの世を去っています。