鄧芝といえば、まぁ劉備死後の蜀呉の同盟を成し遂げた功績があまりに大きいでしょう。

 

そんな鄧芝ですが外交面だけでなく、軍事面でも蜀を支え続け、

最終的に大将軍までのぼりつめた人物になります。

 

そんな鄧芝の生涯をここでは見ていきます。

鄧芝(とうし)

鄧芝は荊州南陽郡の出身ですが、荊州滞在時の劉備に仕えだしたわけではありません。

 

鄧芝は名家出身者であり、

先祖を辿れば後漢を誕生させた光武帝(劉秀)の功臣であった鄧禹とううにまで遡ります。

 

ちなみにですけど鄧禹は結構な戦下手な人物でしたが、

劉秀に高く信頼され、雲台二十八将の筆頭(一人目)に置かれたほどの人物だったわけですね。

 

 

そんな鄧禹を先祖に持つ鄧芝ですが、

荊州の劉表に士官はせず、益州へと期待を持って移住したのでした。

 

しかし益州に移住するのもの評価されることもなく、

もんもんとした日常を過ごしていたようです。

 

 

ちなみにこの時に占い師として名を馳せていた張裕ちょうゆうという人物を訪ねて、

自分の将来について占ってもらったことがあります。

 

この時に張裕から、

「鄧芝殿は70歳を超えた頃に大将軍になれますよ」と占われていますね。

 

まぁこの占いは結局ピシャリ(正確には車騎将軍)と的中するわけですけど、

この当時の鄧芝は劉璋から高い評価を受けて召し抱えられることもなく、

 

娘が劉璋の子である劉循に嫁いで劉璋の一族になっていた龐羲ほうぎに世話になっていたようです。

 

 

この時の龐羲は劉璋によって巴西太守を任され、

漢中の張魯に備えていた時ですね。

 

鄧芝の人生が大きく転換するのは劉備が益州の劉璋を降してからになります。

劉備の入蜀と劉備の崩御

劉備が益州へ侵攻を開始し、劉璋を降すと鄧芝は劉備に仕えます。

 

まず鄧芝は食糧貯蔵庫の管理を任され、

劉備からも鄧芝は高い評価を受けることとなったのでした。

 

鄧芝は出世を重ね、広漢太守にまで昇格します。

 

 

鄧芝は広漢郡をしっかりと治めたようで、

その後中央に呼び戻され、尚書を任されることとなったのでした。

 

 

その後劉備は曹操との戦いで漢中を奪って漢中王を経て「蜀」を建国したわけですが、

関羽の復讐戦として呉に戦いを挑んだ夷陵の戦いで陸遜に大敗してしまいます。

 

これがきっかけとなり劉備は白帝城で跡を託して崩御!!

 

 

ここで劉備亡き後の国を立て直すべく諸葛亮の戦いが始まるわけですが、

まず課題となったのが呉との関係修復でした。

諸葛亮の眼鏡に適った鄧芝

劉備が夷陵の戦いで呉に敗れると、223年に白帝城で没しました。

 

劉備は自分の死期を悟って、呉との友好を回復する為に孫権に手紙を送っています。

そしてその返答として使者の鄭泉を送って和解したのでした。

https://daisuki-sangokushi.com/2020/03/07/%e5%9b%bd%e4%ba%a4%e5%9b%9e%e5%be%a9%e3%81%ab%e5%8a%aa%e3%82%81%e3%81%9f%e5%ad%ab%e6%a8%a9%e3%81%8a%e6%b0%97%e3%81%ab%e5%85%a5%e3%82%8a%e3%81%ae%e9%85%92%e9%a3%b2%e3%81%bf%e3%80%81%e9%84%ad%e6%b3%89/

 

 

孫権と和解できたことで安心したのか劉備はそのまま帰らぬ人となったわけですが、

 

劉備が死んだことで諸葛亮は、

「孫権が和議を破棄してくるのではないか?」と不安を覚えたます。

 

 

劉備の跡を継いだ劉禅はまだまだ幼く、

夷陵の戦いで多くの人材や兵士を失って国力が低下している中で、

 

呉が攻め込んでくれば、蜀は魏だけでなく二国を相手にしなければいけなくなり、

滅亡は免れない状態になるという状況だったわけですね。

 

 

実際に孫権も劉備亡き後の蜀との関係をどうしたものかと考えていたのも事実でした。

 

「蜀よりも魏との関係を強化していた方がいいのではないか?」

とも考えていたと思います。

 

 

諸葛亮はなんとか呉との関係を修復して同盟関係を強化すべく、

丁厷や陰化といった人物を使者として送りますが、

 

孫権が蜀との協力体制を築くメリットがないとう判断もあってかうまくいきません。

 

 

そんな中で鄧芝が諸葛亮に、

「皇帝となったばかりの劉禅様はまだまだ幼い。

国も披露している今、孫権と同盟関係の再構築は必須です」と話しかけたのです。

 

鄧芝からの言葉を聞いた諸葛亮の表情は柔らかくなり、

「呉に誰を派遣するべきかずっと頭を抱えていた。

しかしたった今、呉に派遣すべき人物が見つかったのだ」と鄧芝に言葉を返します。

 

 

それに対し鄧芝は、

「それはどなたなのでしょう?」と返し、

 

諸葛亮は「それはあなたですよ」鄧芝に呉へ使者として行ってくれるように頼むわけですね。

 

重大な役目であると悟った鄧芝は、死ぬ覚悟を持って呉へと赴いたのでした。

鄧芝VS孫権(討論)

鄧芝は重要な役目を持って呉へと赴いたわけですが、

 

「また蜀から詭弁を言いに来ただけだろう」

と孫権は鄧芝に会うことすらしません。

 

 

同盟関係の再構築どころか会う事すら許されなかった鄧芝は、

「私が今回呉に来たのは蜀の為ではなく、呉の為なんですけどね」と孫権に上奏したようです。

 

 

「蜀の為だろ!?

呉の為とはどういったことだ!!」

と疑問に思った孫権は、とりあえず鄧芝と会う事を決意します。

 

鄧芝に会った孫権は、

「蜀との友好関係は私も望んではいるけど、

 

劉禅殿はまだ若いし、

蜀の領地も小さし、夷陵の戦いではに我らに敗れて勢いもない。

 

そんないつ魏から滅ぼされるとも分からない蜀と同盟しても呉にメリットはないのではないか!?」

とそそくさに問いかけました。

 

 

これに対して鄧芝は次のように答えています。

「呉と蜀は併せて四州(揚州・交州・荊州・益州)を支配しており、

孫権様は一代の英雄、そして諸葛亮は一代の傑物です。

 

また蜀は険しい山々に守られており、呉も三江によって守られております。

 

呉と蜀が共に長所をもって助け合えば、

魏を倒して天下を統一することも可能な事です。

 

ましてや現在の三国の関係を維持することなど容易なことです。

 

 

もしも孫権様が魏に服従するのならば、

魏は孫権様に入朝するように命じてくるでしょう。

 

最低でも太子を人質として魏に送るように命じてくるのは自然な流れです。

 

その上でもし孫権様がその命に従わなかったならば、

魏はこれ見よがしに呉へと攻め込んでくるのは明らかです。

 

 

この時に呉蜀が同盟関係を結んでいなかったなら、

蜀は魏の侵攻に乗じて呉に攻めることとなるでしょう。

 

そうなってしまえば江南の地は孫権様のものではなくなってしまいますよ。

これが呉の為だと言った私の真意です。」

 

鄧芝の話に納得した孫権は魏との関係をなかったものとし、

蜀と同盟関係を再び結ぶことを決定したのでした。

 

当時皇太子であった孫登を入朝させるように何度も使者が送られており、

孫権としても鄧芝の言葉に思う所があったのも大きな理由でしょうね。

 

 

鄧芝は重大な役目を見事に成し遂げることに成功したわけですね。

 

孫権が諸葛亮に手紙を送った際には、

「呉と蜀が再び手を取り合うことができたのは、

鄧芝の功績に他ならない!!」

と鄧芝を褒め称えたそうです。

軍事面で活躍を続けた鄧芝

横山光輝三国志(49巻185P)より画像引用

 

孫権との同盟締結の話を聞く限りでは文官(外交官)のような立ち位置にみえる鄧芝ですが、

諸葛亮の北伐にも参加したりと軍事面でも活躍をしています。

 

第一次北伐時には、

五虎大将軍であった趙雲の副将を務めたりしてますね。

 

まぁここで五虎大将軍(関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲)と書いてますけど、

五虎大将軍は三国志演義に登場する呼び名です。

 

正史でそういう呼び名が登場はしていません。

趙雲 -正史の記述に収まりきれない魅力の持ち主-

 

 

諸葛亮が五丈原で没した後も蜀の国境を守り続け、

「東の鄧芝・南の馬忠・北の王平」と呼ばれるほどにまで成長します。

 

いわずもがな東は呉対応、南は異民族対応、北は魏対応ですね。

 

 

鄧芝は出世を続け、最終的に車騎将軍にまで出世し、

最終的に251年に亡くなっています。

常に周りの期待に応え、最終的に「漢中の守護神」として漢中を守り抜いた王平

文武に優れ、南方制圧で異民族に慕われた馬忠

余談

蜀を支え続けた鄧芝ですが、質素倹約に努めるような性格ではありませんでした。

 

ただ私腹を肥やすというわけでもなく計画性がなかったこともあり、

鄧芝が亡くなった時には、家には少しの財産も残っていなかったそうです。

 

 

また三国志演義の描写からは分からないですが、

 

実際の鄧芝は出世するに伴って、

傲慢な性格になっていったようで、人づきあいがうまくなかったといいます。

 

そんな鄧芝を次のように陳寿は評価しています。

「鄧芝は堅実貞正かつ裏表のない人物で功績を残した人物だが、

家庭の事を顧みなかった人物でもあった」と・・・

 

 

そういった性格であったことから、

鄧芝より立場が上であった費禕でさえ遠慮することも多かったようです。

 

ただ一人、鄧芝と同じく呉との外交で活躍した宗預だけは例外だったようで、

傲慢な態度を取る鄧芝に対しても、ズケズケと意見したといいます。

 

 

宗預が将軍に任じられて兵を預けられた時には、

「一般的には60歳を超えれば軍務を担う事は難しいとされている。

宗預殿はもう60歳だが大丈夫か?」と鄧芝から嫌味を言われたこともあったようです。

 

これに対して宗預は、

「王平殿はもう70歳を超えているではないか!

それなのに兵権にしがみついて未だに指揮をとっているであろう。

 

まだまだ60歳である私が兵を指揮できないことがあろうか・・・

王平殿ができることなら私にもできる!!」と言い返したという話も残っていますね。

孫権を感心させた蜀外交官(伊籍・鄧芝・費禕・宗預)の逸話集