三国時代の皇帝といえば、

後に曹丕・劉備・孫権が魏・呉・蜀を立ち上げて皇帝を名乗りますが、

 

曹丕が滅ぼした漢王朝の皇帝で三国時代と関係が深い皇帝と言えば、

霊帝・少帝・献帝の三人があげられるでしょう。

 

 

少帝に関して言えば一瞬で董卓に廃嫡にされてしまうので、

ほとんど存在していないに等しい存在ですが、

 

今回は三国時代の幕開けとなったといっても過言ではない、

黄巾の乱が勃発した際の霊帝の生涯について見ていきたいと思います。

霊帝(劉宏/りゅうこう)

一般的には死後の諡名おくりなである霊帝と呼ばれることが多いですが、

霊帝(孝霊皇帝)の本当の姓名は劉宏といいます。

 

実際劉弁(少帝)も劉協(献帝)も

少帝(弘農懐王)であったり献帝(孝献皇帝)と呼ばれるのが一般的ですからね。

 

ただこれらの名称は死んだ後に付けられる諡名であることだけは忘れてはいけないです。

 

 

諡名にはそれぞれ意味がきちんとあって、

 

「霊」には、国の乱れを招きはしたものの、

国を滅ぼす直接の原因ではなかったような意味合いがあり、

 

例えば次の工程である少帝の「少」には、

内部的争いなどで幼くして廃位されたり、殺害されたりした皇帝につけられる諡名ですから、

 

ある程度考えられた名称であることが諡名だけ見ても分かったりします。

 

 

さて話を戻しますが、11代皇帝であった桓帝(劉志)がこの世を去りますが、

桓帝には跡継ぎがいませんでした。

 

そこで桓帝の妻であった竇妙とうみょうの一族の後押しによって皇帝になったのが、

桓帝の従甥にあたる劉宏(霊帝)だったのです。

※以降は霊帝で名前は統一します。

 

 

霊帝は後漢12代皇帝として即位したわけですが、

この時の霊帝の年齢はわずか12歳でした。

 

まぁ後漢王朝の皇帝はもっと幼い皇帝も多くいたので、

そういう意味ではまだましかもしれませんけどね。

党錮の禁の勃発

右も左も分からないまま皇帝に祭り上げられた霊帝ですが、

そんな霊帝に襲い掛かった大きな事件が党錮の禁になります。

 

当時宦官が非常に強い力を持っていましたが、

宦官が大きな力を持つようになったのは桓帝の時からだと言われています。

 

 

曹操の祖父にあたる曹騰は、

桓帝時代に大きな力を持った宦官だったのは有名な話ですね。

 

正確に言えば安帝・順帝・沖帝・質帝・桓帝の五帝に仕えていて、

 

三国志時代の張譲で有名な中常侍にもなってますし、

そればかりか宦官の最高位である大長秋にまで昇り詰めてますからね。

 

 

 

党錮の禁はまさに宦官と外戚との権力争いだったわけで、

この勝負は宦官の勝利で幕を閉じます。

 

 

もともとは宦官を排除しようとした外戚の竇妙(桓帝の妻)・竇武(大将軍)らでしたけど、

宦官に返り討ちに合ったような形になったわけです。

 

党錮の禁で敗れた竇一族の勢力は衰退し、

竇武をはじめ多くの者達が死に追いやられてしまったのでした。

 

後に何氏(霊帝の妻)・何進(大将軍)と全くといっていいほど似たような構図になっていますね。

宦官排除を目論んであべこべに何進が殺されるという・・・

 

 

 

霊帝は即位してから身近の世話をしてくれていた宦官を大層信頼しており、

 

特に張譲・趙忠に対しての信頼は並々ならぬものがあり、

二人を「張譲は我が父、趙忠は我が母」とまで言っていたようです。

 

 

少し余談を挟みますけど、

 

大将軍であった竇武と黄巾の乱で大暴れした波才の関係を探ると、

結構面白い歴史の裏側が見えたりします。

 

ちなみにそのあたりは、

波才の記事で紹介していますので興味がある人は見てみるのも面白いかもです。

「黄巾の乱」最大の激戦区を担った波才(はさい)

霊帝の財政再建策

三国志という物語上、

霊帝の時代より財政が悪化したような感じになっていますが、

 

実際は霊帝に代わるずっと前から、

漢王朝の財政は悪化の一途を辿っていました。

 

それに伴い、世の中の腐敗も進行していったわけです。

 

 

それが爆発したのがたまたま黄巾の乱という形になってしまい、

群雄割拠の時代に突入していくのですが、

 

当時の皇帝が霊帝ではなく、

誰がなっていてもおそらく立て直しは難しかったと思いますね。

 

 

それでも霊帝は財政再建を、

霊帝なりのやり方でやろうとしていたんじゃないかと思う行動もしています。

 

その代表例が官位を売却でしょう。

 

 

これがどういうことかというと、

どんな高官であろうと大金を積めば就任することができたというわけです。

 

 

最も分かりやすい例は、曹操の父親である曹嵩ですね。

 

一億銭という大金をはたいて、

三公の一つである大尉を買っていますから・・・

 

 

逆にいえば、お金さえ払える者であれば、

どんな無能でも悪党でも官位を獲得できるともいえるわけなので、

 

政治が乱れが加速していくことは当然と言えば当然の話なんですけどね。

 

 

官位の売却以外にも、課せられた兵役などもお金さえ払えば免除されたり、

犯した罪さえも金次第ということになっていたわけです。

 

 

分かりやすく言えば、

地獄の沙汰も金次第といったところだったのでしょう。

 

 

まぁ霊帝のこれらの行為は、

霊帝が私腹を肥やす為にやっていただけとかも言われることもありますが、

 

逼迫していた漢王朝の財政事情を少しでも立て直すために、

 

「高く売れる物はなんでも売れ!」

みたいな霊帝なりの苦肉の策だったのかもしれませんね。

黄巾の乱の勃発

霊帝以前から後漢王朝の権威は地におちかけていたものの、

霊帝の時代には、更に加速していったのが実情でした。

 

そんな中で184年、張角・張宝・張梁の三兄弟によって

中国初でもある大規模な宗教反乱=黄巾の乱が勃発してしまいます。

 

しかし計画が事前に漏れたことで、

張角らは後手後手に回っていくこととなったのでした。

 

その中で皇甫嵩・朱儁・盧植らの活躍が際立った戦いでもあったわけですが・・・

 

ちなみにこの黄巾の乱によって、

曹操・孫堅らも大いに活躍して、一目置かれるようになっていきます。

 

 

こうして後漢王朝を苦しめた黄巾の乱ですが、

最終的に張角の死によって一気に衰退していくこととなります。

 

 

しかしこの黄巾の乱が単純な宗教反乱ではなかったことが、

参加した者達や黄巾賊の編成を見る中でも垣間見えたりするところが面白かったりします。

 

おそらく単純な宗教反乱というものではなかったと個人的には思ってます。

 

 

ただ敗北者であった張角には、

ただの反乱者としてのみ歴史上に刻まれたわけですけどね。

 

「勝てば官軍」といったように、

敗者には歴史を語る資格は残されてないのですから・・・

黄巾の乱の首謀者であり、三国時代の扉を開けた張角

州牧の設置(劉焉の提案)

三国時代の曹操をはじめ、常備軍ともいえる兵士を持っていました。

 

しかし後漢王朝では小さな常備軍はあれど、

大きな規模での常備軍の設置はされていなかったのです。

 

 

国内で反乱が起きた際にも、

他国へ侵攻をする際にも兵士は必要になるわけですが、

 

後漢王朝はその度に随時徴兵する必要があり、

その兵士達を地方から捻出しているという有様でした。

 

 

もともと農民出身である者達が多く、

戦いに特化した部隊というわけでもなかったため、

 

強い部隊とは言えなかったのは想像に難くないかなと思います。

 

 

実際にその通りで、

後漢王朝の軍隊は強いとよべるものではなかったのです。

 

 

黄巾の乱が勃発した際も後手後手に回ってしまったのは、

そういう理由も大きかった感じですしね。

 

 

これらの懸念を少しでも解決する為に採用されたのが、

州牧の設置だったわけです。

 

それまでは刺史というのを置いていましたが、

州牧との大きな違いは、「兵権」をもっていたかどうかという点ですね。

 

 

しかし地方の力を強くする為に設置された州牧でしたが、

各地で力を持つ者達が続出し、

 

後漢王朝の権威は更に地に落ち、三国志の時代へと加速していくこととなります。

 

 

州牧は、それまでの刺史にかわるようなものとして誕生したものですが、

漢王朝末期~三国時代は刺史と州牧が並立しているのが実情ではあったんですけど・・・

 

 

 

余談ですが、州牧設置の提案をしたのは劉焉ですが、

 

劉焉は「地方で独立したい!」という野心があり、

自分の為に提案したような政策だったんですよね。

 

 

そして劉焉の提案は霊帝によって認められて益州に赴任したからというもの、

後漢王朝のいう事をきかず、やりたい放題やってしまうという・・・

益州で独立国を夢見た劉焉

西園八校尉の設置

黄巾の乱もとりあえずの終焉を迎えたわけですが、

霊帝はその四年後にあたる188年に、「西園八校尉」を作っています。

 

「西園八校尉」とは簡単に言ってしまえば、

皇帝直属の常備軍(私兵軍)ということになりますね。

 

 

この時に霊帝は皇帝の身でありながら、無上将軍を名乗っています。

 

皇帝が将軍を名乗ることはありえないことですが、

黄巾乱の首謀者であった張角らが将軍を名乗ったことに対して名乗ったものだと言われています。

  • 張角(天公将軍)
  • 張宝(地公将軍)
  • 張梁(人公将軍)

 

 

張角・張宝・張梁が天地人の将軍を名乗っていますから、

 

霊帝の無上将軍は、漢字の通り、

「自分以上の将軍はいないですよ」と宣言したかったのでしょう。

 

張角・張宝・張梁が死んだとはいえ、

各地で黄巾賊残党による反乱は相変わらず続いていたのが実情ですしね。

 

 

この時に西園八校尉の指揮官に任じられたのは次の八名になります。

 

ただこのあたりは資料によっていくつかの説はあるものの、

きちんと八名の名が残っている「山陽公載記」の人物を紹介したいと思います。

 

実際「山陽公載記」は晋の時代に書かれたものだと言われていますが、

色々と謎が残っている資料になるんですけど・・・

 

 

ちなみにですけど山陽公とは劉協(献帝)のことを示していますね。

 

まぁここで山陽公が使われているのもそもそもおかしな話なんですけど、

そのあたりの話をしだすと非常に長くなってしまうので話を戻したいと思います。

 

 

「山陽公載記」での八人の人物は以下になります。

  • 上軍校尉 ・・・ 蹇碩(けんせき)
  • 中軍校尉 ・・・ 袁紹(えんしょう)
  • 下軍校尉 ・・・ 鮑鴻(ほうこう)
  • 典軍校尉・・・ 曹操(そうそう)
  • 助軍左校尉 ・・・ 趙融(ちょうゆう)
  • 助軍右校尉 ・・・ 馮芳(ふうぼう)
  • 左校尉・・・ 夏牟(かぼう)
  • 右校尉 ・・・淳于瓊(じゅんうけい)

 

 

上軍校尉に任じられた蹇碩は、

大将軍であった何進よりも立場的には上とみなされていたようで、

 

この八人の中のトップの立ち位置に居たのが霊帝からの信頼の厚かった蹇碩でした。

 

 

また袁紹・曹操・淳于瓊の名は聞いたことある人は多いかもしれませんが、

鮑鴻・趙融・馮芳・夏牟なんて人物を知ってる人はほとんどいないと思いますね。

 

 

実際この四名は、西園八校尉に任じられたとあるだけで、

 

他で名が挙がることもありませんから、

どういった人物だったのかよくわからない者達でもあります。

 

 

 

実際霊帝は翌年の189年に崩御してしまうので、

西園八校尉が機能していくこともなく解散してしまうのですけどね。

 

しかし霊帝が作った西園八校尉はなかなかよくできたもので、

後に曹操が霊帝の西園八校尉の制度を取り入れています。

 

曹操が参考にしたという事は、完成度が高い精度だったのでしょう。

 

 

またそれだけではなく、曹丕が建てた魏・司馬炎が建てた晋など、

それ以降も霊帝の考えた制度は長らく使われていくこととなるのです。

霊帝によって作られた「西園八校尉」とは!?

霊帝は名君だったのか、それとも暗君だったのか?

一般的に後漢王朝の腐敗を加速させ、

宦官を重要視した霊帝は暗君だと一般的に言われていますが、

 

それにプラスして官位の売却や地方軍閥の力を増大させた州牧世の設置など、

これらが霊帝を更に暗君としての代名詞にもなっている気がします。

 

 

しかし12歳で即位して身近に世話してくれる人達が宦官だったことを考えれば、

宦官を重要視したのも自然な流れだと思いますし、

 

官位売却も財政赤字を少しでも解決する為と考えると、

霊帝に対する評価もだいぶ変わると思いますね。

 

 

西園八校尉の設置も同様です。

 

それまでの後漢王朝の体制からするとこれも評価できるものではないですが、

その後も長らく歴代王朝に採用されている点からも、優れた制度だったと言えるでしょう。

 

 

ただ宮廷内で商人の真似事ともいえる店を作って、

そこで物を販売するといったこともやったりしています。

 

他にも犬に文官が被っている冠を被せたり、

庶民の真似事をして四頭立てのロバに乗って庭園を走り回るなどの奇行も見られたり・・・

 

 

なかなか考えさせられるようなこともやっている霊帝ですが、

やはり結果として成果を上げた政策も見られない為、

 

暗君とまでは言えないかもしれませんが、迷君止まりだと言えるかもしれませんね。