曹操を真正面からけなしたにもかかわらず、

曹操によってその才能を認められた人物は何人かいますが、

 

今回紹介する劉先もその一人になりますね。

 

 

これは真正面ではないですけど、

後に建安七子の一人に数えられた陳琳の檄文が明らかに有名です。

 

 

陳琳は曹操ばかりでなく、

父親である曹嵩、祖父である曹騰すらもけなしたことで、

 

「そこまでいう事ないじゃないか!」

と曹操が激怒したほどの辱めを間接的に与えているわけです。

 

 

後に袁紹との戦いに勝利して陳琳を捕らえると、

その才能を愛して味方に引き込んでいるから曹操の器の大きさを物語る逸話でもあります。

 

話が少しずれてきましたが、

今回紹介する劉先も曹操の器の大きさが分かる逸話を残した人物になりますね。

劉先(りゅうせん)

劉先は若かりし頃から色々な学問に通じているだけでなく、

記憶力も優れた人物でした。

 

劉先は老子・荘子の唱えた老荘思想を好んでいたといいます。

 

 

ちなみに劉先の甥周不疑という人物がいますが、

こちらの方が有名だったりします。

周不疑(しゅうふぎ) -曹沖と並び称された神童-

 

 

劉先は荊州零陵郡(荊州南部)の生まれたことから、

荊州牧として荊州を治めていた劉表に仕官することとなったわけですが、

 

劉表の使者として、

曹操のいる許昌に使者として訪れた事がありました。

 

その時の二人のやりとりが次のようなものになります。

曹操に毒を吐いた劉先

曹操が劉表の使者として訪れた劉先に対して、

「お前の主は、献帝がいる許昌に訪れる事もなく、

何故天を祭る儀式を行ったのか!!?」と尋ねたそうです。

 

 

これに対して劉先は、

「劉表様は漢王朝から荊州を任されました。

 

しかし漢王朝は乱れに乱れており、

凶悪な者達に邪魔されているという現状があります。

 

そんな状況だからこそ、献上品を持って上奏することすらできませんでした!

だからこそ劉表様は荊州にて天地を祭ったのです」と答えたのです。

 

 

曹操はすかさず、

「凶悪な者達とは誰の事だ!?」と突っ込み、

 

劉先もすぐさま、

「今現在、私の目に映ってる皆様がそうですね」

と平然と答えたのでした。

 

 

 

ここまで言われて曹操もいらっとしたのもあったのでしょう。

 

 

曹操は自らの力を誇示する意味でも圧力をかけてきますが、

劉先はそれにも屈することはありませんでした。

 

むしろ軍事力に頼って残忍な行為を行う曹操を、

蚩尤しゆう智伯ちはくに例えて皮肉る始末・・・

 

 

これには曹操は何も反論できなくなったようですが、

曹操は自分を前にして堂々たる受け答えをして私を恐れない劉先を一角の人物であると認め、

 

劉先を武陵太守に任じ、荊州へと戻っていったのでした。

 

 

武陵太守と言えば、どうしても荊州四英傑の一人として、

赤壁の戦い後に武陵太守であった金旋が頭に浮かんでしまいますけれども、

 

少なくとも劉表時代に武陵太守に任じられたは劉先だったのでしょう。

記録が最も残っている荊州南部の四天王(荊州四英傑)「金旋」

 

 

ただその後の劉先の動きを見る限り、武陵太守には仮の者が任じられて治め、

劉先自身は劉表の身近で仕えていたような感じがしますけど、

 

このあたりは残ってる記録を見る限り、推測するしかないような感じですね。

軽く余談(智伯・予譲)

智伯の名前を見るたびに真っ先に思い浮かぶ人物として、

予譲が思い浮かんでしまうのは余談の余談です(笑)

 

本当に簡単に説明すると、

誰も能力を認めてくれなかった予譲を智伯が国士として認めてくれた。

 

 

だからこそ人々から評判が悪く、

最終的に討ち取られることになった智伯に深い恩を感じており、

 

残りの生涯をかけて仇討ちをしようとした人物ですね。

 

 

予譲については、司馬炎・諸葛靚の記事でも紹介してたので、

気になる人は下記事の予譲の所だけ読んでみるのもいいかもです。

司馬炎の幼馴染みであり、「孝」の道を貫き通した諸葛靚(しょかつせい)

劉表を諫めた劉先

曹操と袁紹の対立が激しくなり、両陣営が官渡で激突することとなります。

 

もともと袁紹寄りであった劉表に対して、

袁紹は曹操の背後を襲うように命じてきたのに対して、劉表は承諾します。

 

しかし劉表が動くことはありませんでした。

 

だからといって劉表が曹操に味方することもなく・・・

 

 

劉表としてはあえて危険な場所に赴くことなく、

天下の情勢を見極めたいという根端があってこそでしたが、

 

これに対して大きな危機感を覚えた一人が劉先らでした。

 

「天下の情勢は曹操に傾きつつある現在、

 

袁紹の味方をしないならば、

曹操と結ぶことが劉表様の為であると・・・」

 

 

そこで劉表は迷った挙句、韓嵩を使者として曹操へと送ったのですが、

帰宅した韓嵩は、これ以上曹操に逆らう事は危険であり、

 

「息子を人質として曹操に差し出した方が良い!」

と劉表に告げます。

 

 

しかし劉表は韓嵩の言葉に怒りを露わにし、韓嵩を処刑しようとするものの、

劉表の妻であった蔡夫人の取り成しによって命だけは救われています

その後の劉先

曹操は袁一族を滅ぼしたことで、

長らく静観していた劉表が治める荊州制圧に動き出すことにします。

 

そんな折に、

荊州を治めていた劉表が病死・・・

 

後継者争いの中で蔡瑁・蔡夫人らが味方した次男の劉琮が跡を継ぐわけですが、

戦わずして劉琮は曹操に降伏!

 

もちろんこの時、劉先も曹操に降伏することに・・・

 

 

曹操と因縁があった劉先は、

曹操によって尚書令に任じられたといいます。

 

曹操はかつて自分に無礼を働いた劉先の才能を、

曹操なりに高く評価したということでしょう。

 

しかし劉先の記述はここで終わっており、

その後の劉先がどうなったかなどは記録は残っていません。

 

 

最後に余談ですが、曹操を逆賊呼ばわりした劉先の逸話は、

三国志演義での元ネタ(参考話)の一つになっていたりします。

 

それはいわずもがな、

張松が曹操を訪問した際の話ですね。