司馬懿の妻と言えば、張春華という女性ですが、

結構ゲームにも登場したりするために結構有名だったりします。

 

他にも司馬懿には伏夫人・張夫人・柏夫人という妻がいましたが、

勿論正室だったのは張春華になりますね。

張春華(ちょうしゅんか)

まず名前から分かるかもしれませんが、

三国時代では非常に珍しく姓名が判明している女性になります。

 

大体は〇氏みたいな感じで分からない女性が大半ですから・・・

 

 

またそれだけでなく「189年生まれ」という所まで、

はっきりと分かっているからなかなかのもんです。

 

ただ「春華」は唐の史家の創作とも、

一部では言われたりしているのは余談です。

 

 

まぁここでは張春華として、

当時から姓名が伝わっている人物として話を進めていきます。

 

 

そんな張春華ですが、幼い頃から聡明で広く知識を兼ね備えていただけでなく、

徳を備えた女の子だったと言われています。

 

ただ一方で激しい性格の持ち主でもあり、

そういった逸話が残っていたりします。

逸話①(殺人)

司馬懿が曹操から仕官の誘いを受けた時に、

司馬懿は病気の為に曹操からの誘いを断りました。

 

これは時代的に201年の頃の話でしょうね。

司馬懿は7年間に渡って拒んでいた時でしょうから・・・

 

 

それから少しして、書物にカビが生えていることがあった為に、

庭で干したことがありました。

 

 

ただ干したまではよいものの、急に雨が降ってきてしまい、

 

司馬懿は慌てて庭に飛び出して、

干していた本を取り込んだといいます。

 

 

たまたまそれを見ていた女中(お手伝いの女性)がいて、

それに気づいた張春華は不安に陥ったわけです。

 

「曹操様に病気の為に仕官を断っているのに、

 

外で元気に騒いでいた事が、

もし曹操様の耳にでも入ったら・・・」

 

 

 

そう思った張春華は夫の為にも一族の為にも、

女中を迷わず殺害してしまうのでした。

 

それを知った司馬懿は、

妻である張春華を警戒するようになっていったといいます。

 

 

張春華の内心的な思いとしては、

 

「夫や一族の為にやったというのに、逆に夫に引かれてしまうとか・・・」

みたいな心境だったのでしょうね。

司馬懿 -晋の土台を築いた諸葛亮のライバル-

女中殺害に関する疑問

張春華は上でも述べたように、

 

姓名だけでなく、誕生した年から没した年まで、

全ての記録が残っている珍しい女性です。

 

 

そして司馬懿が曹操に誘われたのは、

司馬懿は河内郡で上計掾に推挙されて洛陽に行った時の話なので、

 

完全に201年の出来事だと分かります。

 

 

そうすると189年に生まれて201年の時の出来事なので、

張春華が12歳の時の逸話ということになります。

 

正確にいつ結婚したのかは不明ですが、

年齢的にもさすがに結婚してすぐぐらいだったかもしれません。

 

どちらにしても12歳の子が、

女中を殺害に至るというのは少し厳しい感じの気がします。

 

 

そう考えると可能性はあるかもしれませんが、

ちょっと疑わしい逸話であるとも言えるかなと個人的には思っていますね。

 

これは次に紹介する逸話でも同じで

普通に疑わしいという話もあったりします。

逸話②(自殺未遂&心中未遂)

これは司馬懿が曹操に仕え、昇進していった頃の逸話になります。

 

司馬懿は張春華だけでなく、

伏夫人・張夫人・柏夫人という側室を抱えていきました。

 

おそらく順序的な所からも、

最後の側室じゃないかなと思いますね。

 

 

これは正室であった張春華ではなく、

若く美しかった柏夫人に気持ちが移っていくのですが、

 

それに伴って、

司馬懿と張春華は次第に会わなくなっていきます。

 

 

しかし司馬懿が病気になった際に、

妻として心配する心が少なからず生まれたのでしょう。

 

 

張春華は司馬懿の見舞いに訪れるのですが、

 

そんな張春華に対して司馬懿は、

「今更ながら何の用だ!

婆は黙って引っ込んでいろ!!」ときつくあたったのでした。

 

さすがにこれは司馬懿が酷いと思いますが・・・

 

 

まぁこの件があってからというもの、

 

張春華は大変なショックを受けてしまい、

完全に食を絶ってしまったのでした。

 

 

そればかりか息子であった司馬師・司馬昭らまで巻き込んで食を絶たせたことで、

次第に皆やせ細っていくこととなります。

 

つまり子供と共に自殺をはかったわけですね。

 

 

それを知った司馬懿は焦って張春華の元を訪ねて、

謝罪をしたのでした。

 

そして張春華の元から立ち去る際に、

「お前の心配をしたのではない!

ただただ息子が心配であっただけだ・・・」

と捨て台詞を吐いて退出していったのでした。

 

これにより張春華は再び食事をとるようになったという話ですね。

 

 

まぁ逸話から推測できる事としては、

夫婦間の関係は本当に冷め切っていたのでしょうね。

 

ただその中で少なからず張春華を想う心が残っていた逸話だとも思います。

その後の張春華

189年に生を受けた張春華ですが、

司馬師・司馬昭をこの世に生み、247年に亡くなっています。

 

 

司馬懿との夫婦間は良いというものではなかったかもしれませんが、

 

司馬師・司馬昭を生んだことで、

少なからず報われた生涯だったのではないかと思いますね。

 

女性という幸せの面では難しい所もあるかもしれませんが・・・

 

 

春華の遺体は洛陽の高原陵に埋葬され、

息子であった司馬師から「広平県君」という称号が与えられています。

 

 

またそれだけではなく、張春華の次男である司馬昭から、

264年に「穆妃」と追贈されています。

 

 

そしてここで終わりかと思いきや、

265年12月に孫の司馬炎が魏を滅ぼして晋を建国すると、

「皇后」が贈られて穆皇后(宣穆皇后)となっていますね。

※司馬昭は265年8月に死亡

 

 

まぁ個人的に言うと穆皇后は、

劉備の最後の正室だった穆皇后(呉懿の妹)を思い浮かべていますけどね(笑)

劉備の元に嫁いだ未亡人、呉氏(穆皇后/ぼくこうごう)〜劉備最後の妻〜

 

 

何故なら「穆」には「穏やかな」

といったような意味合いが含まれている点から、

 

ちょっと張春華の逸話だけから判断すると、

違和感が生まれてしまうのも正直な所だったりします。